地域の居宅介護支援事業所(ケアマ事務所)、スマイルあおいサポートが閉鎖するという報せが松原水貴のもとに届いたのは、その日の就業時間が終わろうかという頃だった。
きっかけは地域包括支援センターから入った一本の電話だ。
「閉鎖とはまた急な話ですね」受話器を持ち水貴は怪訝な表情を浮かべる。ケアマネジャーの報酬は決して多いものではない。事業が立ち行かず撤退する事業所だってある。
「そうなんです。来月までは事業を継続するんですけど、担当していたケースは全部よその居宅にお願いするという話になってるんですよ」
センター長の長澤は落ち着き払って答えるが、なぜその件でうちに電話が来るのだろうかと水貴は疑問を感じた。
ケアマネ事務所が閉鎖するのであれば、その利用者をよそに振るのはその事務所の仕事だ。本来ならいちいち包括支援センターが口を挟むようなことではない。
「それでですね、ウチが困難ケースとして支援のバックアップに回っていたケースがありまして、これを松原さんに受けて頂きたいのですが…」急に歯切れが悪くなり、長澤は告げた。
「今なら余裕がありますし、構わないですよ」腑に落ちた水貴は何事もなく即答する。どんなケースかはまだわからなくても、困難事例を引き受けるなど、最近の水貴にとってはごく当たり前の事になっていた。
手短に概要を聞いた水貴は、丁寧にメモを取り、初回訪問の段取りを組む。前任のケアマネは本人から拒否されていて同席はなし。センター長の長澤と包括職員の井上が同席する事になった。
電話を終えた水貴は、上司の倉橋に報告を上げる。
「前々から上手く行ってないとは聞いてたけど、閉鎖とはね」
倉橋は事例の内容も気にはしているが、他の事業所が閉鎖する事についての感想を述べた。その顔はいつになく神妙だ。
「前のケアマネから情報をもらいたいところだけど、難しいみたいね。包括と相談してしっかりやって」淡々と指示する倉橋に、水貴は「はい」と短く返事をするのだった。
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「悪いわねえ、急に来てもらっちゃって」
そう言って水貴達を招き入れた反町貴子は、化粧をし、綺麗に黒くに染めた髪をしていた。82歳とのことだが、10歳以上は若く見えるし、背筋も曲がっていない。要介護1の認定を受けているとは、言われなければ想像もつかないだろう。
この女性、反町が難しい事例とされているのは、その言動に原因があった。
ヘルパーを利用していたのだが、ヘルパーが入るたび「あのヘルパーが家の物を勝手に持って帰った」とケアマネにクレームの電話を何度も入れていたのだ。
ある時は「ヘルパーが急に私を抱きしめた」と言う事もあったし「台所を汚い雑巾で拭いて気分が悪かった」と言う事もあった。もちろんケアマネが確認をしても、そのような形跡は見当たらない。
ある時はスーパーで店員に花瓶で殴られたと警察に駆け込む時さえもあったのだ。近くに住んでいる娘が警察に行き事情を聞かれるも、本人の言うことが支離滅裂で会話にならない。今では地域からも、娘からさえも、厄介者のように扱われていた。マンションで暮らしているが、同じマンションの住人とも関わりがない。
「こちらこそ済みません反町さん。今日は大勢でお邪魔してしまいまして」長澤が丁寧に頭を下げ、一同はテーブルにつく。反町は長澤や井上に対しては警戒感を持っていないようだ。
「はじめまして。ケアステーション柏の松原と申します」名刺を手渡しながら水貴も挨拶をする。
「あなたが新しいケアマネさん?今度はずいぶん若いのねえ。前のケアマネさんたら体が大きくて私、ずいぶん怖かったの。お茶を出したら食器を乱暴に扱うし大きいバイクで騒音を鳴らしながら来るもんだから、ご近所さんに悪くて…」
反町は聞きもしない前任ケアマネに対する不満を一方的にまくし立てる。果たして。これは認知症によるものなのか、何か別の原因があるのか、これは医師でもなければ判断ができないことだ。
前任のケアマネ、柳谷は確かに肉付きの良い女性だったが、物静かでおとなしい人だ。その柳谷も反町を精神科に受診させようとしたが、本人が聞き入れるわけもなく、四苦八苦していた。
この状況の改善の糸口をどうやって見つけるか。水貴に課された課題は、今回も大きかった。
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