いつもありがとうございます。暑くて食欲がありません。食材も傷みやすいので毎日の料理は簡単に済ませています。
自分が食べる分は自分が作るのが当たり前?
ある介護施設が、利用者さんが食事を作っている光景をSNSにアップしていました。
施設の中でもできることをやって頂く。例えば洗濯物を畳んで頂いたり、食材の下ごしらえをして頂いたり、以前勤めていたデイサービスでもやっておりました。
できることをして役割を持つこと。今までの生活でやっていたことをして、介護が生活の延長線上に成り立つこと。たとえ複雑な作業ではなくとも手を動かして機能を維持すること。どれも大切なことですね。いい取り組みだと思います。
しかし、今回の件は投稿者のコメントに少々違和感がありました。
「自分が食べる分は自分で作るって当たり前だよな」と述べながら投稿していたのです。
しかし、当たり前とはなんでしょうか?介護の現場でもそれ以外でも、加齢や病気によって出来ていたことができなくなっていくことも、あり得ます。
食事を作るどころか、自分で食べることもままならず、介助して食べさせてもらっている人もいます。そういう人は「当たり前」でなくなってくるのでしょうか?
やっていることは否定しませんが、当たり前という言葉を使って紹介するのに違和感を覚えます。
しかもその人は、「こういう考え方もあり」「正しいを固定化させない」「私のやることをわからないという価値観も認め合いたい」などと普段から言っているのです。
自分が食べるものを自分で作るのが当たり前というという表現こそが、まさに正しさの固定です。
自分がマスクを玩具にしてふざけて炎上した時や、女性が胸を人に見せるのを介護でやってみようと言って炎上した時は「正しさを固定化させない」と言い逃れを図り、普段の言動は正しさの固定化をしていくって、何なんでしょうか。
使っている言葉が、あまりにも軽い。
私はマスクを玩具にしてふざけている程度のことだったら流しますが、そういう二枚舌にどうしても違和感を感じてしまいます。
利用者さんの背景も多様
介護を利用されている方も、これまで様々な生活や経験を積み重ねて今に至っています。
中にはこれまで料理が好きだったけど、火の使い方が危なくなり、家族に料理を止められてしまうこともあるでしょう。
そういった方が小規模多機能などの介護の場で、介護職の見守りの中、好きな料理をできるようになれば、それはとても素晴らしいことです。
しかし。そうでない方も多数おられるのは当然のことでしょう。
誰かが作ってくれたご飯を食べるのが当たり前だった人もいます。いろいろな背景の利用者さんがおられるのが当然なのに、そこで「当たり前」という言葉を使うのが、違和感なのです。
まあ長々書いてきてアレですが、要は当たり前という言葉を使ったというそれだけのことがもやもやするだけ。
他の施設でも、料理ができる方には包丁を持って料理に参加してもらったりはあることなので、特段新しい取り組みをしているようにも感じませんし…
そういう自分は自分の食べる文作ってるのかな?
自分で作るのが当たり前の人ですが、そういうことを言うからには自分の食事を自分で作ってるんでしょうか?
まあそれが当たり前だと言うのだから、きっと作っているのでしょう。
経営にTwitterにと忙しいとは思いますが、まあ作っているのでしょう。
冷凍餃子とか使わず手作りしているかもしれません。なんだったら小麦粉をこねて皮を作るところからやっているかもしれません。その人にとっては作るのが当たり前なのだから、それくらいするでしょう。
まあ料理をすることは悪いことではありません。
世の中には「クックドゥを使うのはちゃんとした料理じゃない」とか「ポテトサラダなんか簡単な料理なんだから買わずに作れ」とか「冷凍餃子は手抜き」とか、料理の大変さがわかっていない意見があるようです。偏見ですが料理をしたことのない人の意見だと思います。
そういうことを言わないように、誰かに作ってもらうだけより自分も参加するようにするのは意味のあることだと思います。
ただ、世の中には作れない人や、食べさせてもらわないといけない人もいると理解しておいて欲しいですね。「当たり前」と安易に言って正しさを固定化させず、違いを認め合いましょう。
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