教育係

介護

「異動?」

「そう。異動」

3人は事務所から離れた居酒屋にいた。管理者の倉柳から居酒屋に誘われるなんて珍しいこともあるのだなと、水貴は思っていた。仕事が終わってから水貴と倉柳は2人で居酒屋に入った。個室に通されたら、そこに座っていたのは斎藤スミレ。

てっきり2人だけだと思っていたのだが、予期せぬスミレの登場に水貴の頭はますます混乱した。一通り注文して店員が離れた後、倉柳の口から、スミレの異動の話が飛び出した。

「そういうことみたいなんですよ。私もちょっと戸惑ってて…」

スミレはショートステイの部署での働きが高く評価されている。異動の話があるなんて水貴にとっても寝耳に水だ。

「今日は私が出す。2人とも気にせず注文して」倉柳は戸惑いの表情を浮かべる水貴に、注文用のタブレットを差し出した。「はあ」と気のない返事を返しながら受け取る水貴。

「松原さんは最近、番場さんを担当してて大変だと思うけどね。休み時には休む。大変な時こそしっかり食べないと体持たないよ」言いながら倉柳は手元の梅酒ロックに手をかけ、呷る。「最近食欲も無いようだし」痛い所をつかれ、水貴は上手く言葉を継げなかった。

「この1年、人員を増やして欲しいって上と掛け合って来たんだけどね。これという人材が応募してこなかったのよ。ケアマネの人材難は知っての通りよね」

ケアマネは全国的に人材難だ。介護職員の待遇は昔に比べたら良くなった方と言える。だがケアマネの処遇改善の話は国からほとんどと言っていいほど聞こえて来ない。ケアマネとして働くより、現場の介護に携わっていた方が、と考える人が増えるのは当然と言えば当然だ。

「求人をかけて採用出来れば良かったんだけどね。それはもう諦めて、法人の中で何とかしようってことで、ケアマネ資格を持ってる斎藤さんが来月からうちに来ることになったのよ」

「そういうことみたいなんですよ、水貴さん。少し前にその話を聞いて、上から発表するまで誰にも言えなかったんです」そう言いながらスミレは申し訳なさそうな表情を水貴に送ってくる。長身で細面で、いつも快活な笑顔を浮かべているスミレの表情が最近冴えないように見えたのはそういうことだったか、と水貴は納得した。

水貴は平均より少し小柄で、あまり積極的に人に話しかける方でもなく、ボーイッシュで活発なスミレとは真反対のタイプと言える。

「あなた達はいつも仲良いしね」並んで座る水貴とスミレを見て少し笑って、倉柳はグラスを置いた。

「松原さんもケアマネとしては経験を積んできた。私としては斎藤さんの教育係を引き受けて欲しいと思っている訳」

「教育係、ですか。私が」

「適任だと思う。もちろん事務所全体でフォローする。単純に仲が良いからってだけで任せようと思ってる訳じゃないの。人に教える経験をここらで松原さんにも積んで置いて欲しいのよ」

上司にそう言われたら否やはないが…。今抱えているケースをこなしながら、新人教育を担うとなるとどこまで時間を割けるかが気がかりだった。

「難しいケースをいくつか担当してくれてるし、負担ばかりかけるのは私も申し訳ないと思ってる」倉柳は追加で運ばれて来たグラスに手をかけた。

「それは…。私も頑張らないとと思ってるんです」水貴も水貴でハイボールを受け取り、少し口に含んだ。

スミレは水菜サラダや唐揚げを取り分けながら話を聞いていた。「ここ1週間くらい水貴さんも表情が冴えませんもんね?」…。スミレちゃんにも気づかれてたか、と水貴は少しバツが悪い。

「今のケースは、大変ですし」

「それ、番場さんの事よね?」ええ、と軽く頷く水貴に倉柳は続ける。

「松原さんはいつも…こういう言い方は悪いかもなんだけど、すました感じしてるんだけどね」え?突然何を言い出すのかなと水貴は箸を箸置きに置く。

「でも一生懸命になってるものね。何かあったらすぐに動かないとって気を張ってる。それがあなたの良さでもある」

「私から見ても、水貴さんはいつもまっすぐです」スミレも同調したということは、周りからはそう見えてるということなんだなと思い水貴は黙って聞いていた。

「心に余裕を持ってとか、現場を信頼して思いつめてるばかりじゃダメよ、とか声をかけた方がいいのかなと悩みはしたけれど」

少し残ったグラスを呷り、息をついてから倉柳は優しく水貴に向き直った。

「あなたが思うようにやらせた方がいいんだなって、最近思うのよ。番場さんのケース、今のあなたの対応で間違ってない。このままやりなさい」そう言って倉柳はスミレにも目を向ける。

「斉藤さんも松原さんをよく見て学ぶように。あなた達仲良いからそれも心配してない」

はい、と応じるスミレ。

確かに、力を抜きなさいと以前はよく言われていたような気がする。最近は言われてないな、まあ今日はこうして誘われたけど…料理に手を伸ばしながら水貴は考える。倉柳をとっつきにくい人だと苦手意識を持っていた時もあったが、今では良き理解者と言ってもいいのだろうか。スミレの教育係も任せてもらえるのだって、驚きはしたが、期待されてると受け止めたらいいのだろうか。

倉柳とスミレの話は弾んでいた。誰とでも打ち解けやすいのがスミレの長所だ。そういうところがいつも羨ましいなと思う。

水貴は少し前なら飲みに誘われたって悩んでばかりいたのかもしれない。しかし今は気持ちを切り替えてするべきことに集中できる。水貴はジントニックのさわやかな香りをゆっくりと味わった。

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