『涙』⑤

介護

ケアマネにとって、実績の入力をする時期は戦場である。いや、ケアマネでなくても介護の事業所にとっては月末月初は多忙を極める。

「はい…。区分変更の結果がまだ出てません。市役所にも確認しました。…はい、ですので今月の請求は保留ということでお願いします」

水貴は疲れきった声でそう伝え受話器を置く。電話で話しただけだと言うのに額に汗が滲む。電気代の節約とやらで冷房の温度を下げられないからばかりではない。実績入力作業の緊張の連続が、事務所のケアマネ達に疲弊を強いる。

…ふうと一息、ため息を漏らす水貴。隣に座る倉柳が声をかける。

「確かあの人、区分変更をかけていたよね?あなた伝えてたと思うんだけど」

「ええ。ちゃんと連絡したつもりでした。つもりだったんですけど…」

「…そうね。まったくやってらんない」

あーあ、と倉柳もため息をつき、書類の束を無造作にデスクに放った。介護認定を受けている利用者が、認定期間中に状態が変化すると、認定されている介護度と利用者の状態像が合わなくなる。そういう時には利用者とケアマネが相談して、介護度を見直して欲しいと市に申請するのだ。申請が認められるなら、認定期間の途中であっても、申請した日に遡って介護度が上がる。しかし、結果が出るまでは介護サービスの利用費用も確定しない。事業者は請求が出来ないし利用者も結果が通知されるまで自分の申請が通ったのか知るすべもない。先が見えない不安を抱えることになる。

そうしたデメリットを考慮した上でケアマネは区分変更を申請するのだが。まったく、ケアマネとしても気が気ではない。

「タダでさえこの時期忙しいのにさ。やってらんないわよ」

区分変更を申請していることは事前に事業者に伝えてある。なのにいざ請求する時期になって確認の電話がかかってくるわけだ。倉柳でなくとも愚痴の1つも吐きたくなるというものである。

「まあまあ皆さん、お茶淹れましたから~」

張り詰めた雰囲気を察したか、井上さんの間延びした声が事務所に響く。いつも間延びした話し方をする先輩ケアマネだが、明るい声が事務所の張り詰めた空気を和ませる。井上さんは自分の入力を済ませて涼し気だ。だがその穏やかな表情の裏腹に、皆の請求リストの漏れがないか既にチェックを済ませているあたり徹底したプロ意識を感じる。

「どうも」と、さっとグラスを手にする倉柳も、井上さんには頭が上がらない。歳の頃はそう変わらず、立場も倉柳の方が上なのだが、倉柳が井上さんに強気に出たことを一度たりと水貴は見たことがない。

事務所の一同はそれぞれお茶を飲み小休止。飴を口に入れる者もいる。空気を変えなければ澱むばかりだ。そういう時に限って事務ミスが出る。

井上さんに言われるままグラスのお茶を呷る水貴も、そう仕事が残っているわけでもなし。残り二、三名の入力をしてから最終確認をしようと構えていた。

ピピピ…

間延びした空気が差したかに見えた事務所の空気に着信音が鳴り、一同は何事かと音のする方に目を向けた。鳴っているのは水貴の会社スマホである。

慌ててスマホを手に取る水貴。スマホ画面には見慣れた発信者名。しかしこのタイミングでこの表示が出ることの意味、それは否が応でも水貴の気分を突き落とすには十分である。

-今、お話しても大丈夫ですか?

「はい」聞かざるを得ない話であると既に水貴は心を決めている。

-番場さんの家族からこちらに電話が入りました。『息を引き取ったようです』と。家族様が見た時には既に…。往診の先生には既に連絡入れてます。私達もすぐ向かいますが

「行きます」話を遮る水貴の応答。

家族の言う通り、番場が本当に亡くなったのであれば、往診医と訪問看護がすぐに動くべきである。

在宅で療養中亡くなったとしても、自宅療養を望んで亡くなった人に往診医も訪問看護もサービスが入っていたなら警察沙汰もない。各々が決められた通りに動けばそれで良いのだ。

ケアマネは…。ケアマネが行かなくとも話は進む。死亡確認を医師がする。死亡診断書を医師が書く。訪問看護はエンゼルケアなどを行い、あとは葬儀社に家族が連絡すれば、それで済むといえばそうだ。だが、水貴はそれで済ますつもりはなかった。

「行くの?…って聞くまでもなかったね」通話終了ボタンを押した水貴に声をかける倉柳。厳しさを見せることの多い倉柳だが、今の倉柳にその気配は微塵もなし。

「焦って事故したらダメよ。車が多くなる時間帯だし」井上のかける言葉はいつも優しい。

「遅くなるかもしれません。私を気にせず皆さん先に帰っててください」

水貴はそう言葉を発するのが精一杯だった。とりあえず訪問用のカバンを手に取り、自転車のカギに手を伸ばす。

「思う存分行ってきなさいな。どうせ私も実績が終わらないと帰ったりしないしさ…。」

‘’何かあったら事務所に架電して私達を頼れ ‘’

倉柳がそういう時は、事務所としてそう対応するのが暗黙のルールである。

「はい」と迷わず返事をして駆けていく水貴。水貴がすぐに動けるのは、そのルールを水貴が熟知できるに至ったからである。

だから水貴は迷うことがない。常に安心感を持って決断することができる。自分が一人ではないとわかっているからだ。

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