『殴られる介護職』

介護

認定調査員は介護の手間を公平に判断し、できる限りわかりやすく情報を保険者に伝えるのが仕事だ。

判断に迷うことはあるが、迷ったら迷ったと保険者に伝える。どういう状況が発生していて、なぜ迷ったか。それを正確に伝えさえすれば、どういう判断を下すかは保険者の仕事だ。

そして調査員は調査で知り得た情報を外部に漏らすなどあってはならない。保険者への報告でさえ、要らない情報を伝えてはならないのだ。

さて、五十嵐さんの情報をどのように調査票にまとめるか。情緒に流されて誰かに肩入れすることはあってはならない。そう思い努めて冷静になろうとはするが、考えがまとまらないでいた。

「日頃から感情の起伏が激しいようですね。前からそうだったのですか?」

「ここに入所されたばかりの頃はそうではなかったですね…。介護する職員に対して遠慮のようなものがあったのかもしれませんが、最近はまったくです。ここ2ヶ月は怒鳴ったりはしょっちゅうです」

「排泄の失敗があった時の手間、移動しなければいけない時の手間、今の話に基づいて特記事項を書きましょう。精神・行動障害の項目について詳しく聞かせてください」

「物忘れはされていますが…。食事をした事を忘れてしまって、というわけではないですね。なんと言っても困るのはこちらのお願いを聞いて頂けないことです」

「急に怒ったり、とかは?また急に泣いたり笑ったりもありますか?」

「些細なことで怒る、という感じです。毎日ですね」

「私が入室した時もなんだか怒っているようでしたが」

「あれはまだマシな方です。むしろ今日はよく話を聞いてくれたと思っていました。いつもはスタッフが話しかけただけで急に怒り出すことがありますから…」

「物を壊す・被害的・昼夜逆転・収集癖などはどうですか?」

「それはないですね。ただデイサービスでは『早く送れ』と言ってきかないようで…。外部のデイサービスでもこれ以上酷くなるなら対応が難しいかも、と」

他にも質問を重ねながら淡々と書きとめていく。

…実際に暴力があってから関わる人はすっかり萎縮してしまっているらしい。威嚇的な態度を取られるだけで周囲の心労は確実に溜まる。

調査の項目では介護に抵抗する・自分勝手に行動するの項目が評価されて介護度は高くなるかもしれない。

だがこれは介護度がうんぬんの問題ではなく、精神科を受診するなどの対応が必要なのかもしれない。これをどう解決するかは、私が口を挟むことではない。

「対応が難しいところですね…。お察しします」

あらかたの項目を確認したところで、思わず私はつぶやいていた。

「そう言って頂けると救われますね。ご家族さんは聞いてくださりませんから…」

苦笑する九条さんがいちばん大変なのだろう。

家族は「うちの父はそんな事をしない」「家にいた時は落ち着いていた」と取り合わないそうだ。五十嵐さんが興奮して怒鳴ってしまうのなら施設の対応に問題があるのではないかとまで言っていると思う。家族の言動についてまでは調査に関係ない話なので調査票に書き込まれることはないのだが。

おかしな話だと思う。

「これはあくまでも一般的な話なのですが」

前置きを述べる私に、ふと九条さんが驚いた表情を浮かべる。構わずに私は続ける。

「介護施設に入所させて、問題があったら『施設の対応に問題がある』とおっしゃる家族さんは、なら自分達で介護をするという方法だってあるはずです」

「…!そういう考え方だってありますよね…。私達だって入所してくださいと言ったわけじゃない。無理に入所してもらったわけではないですし」

これはもう調査員としての聞き取りではない。介護に関わる者同士の単なる世間話だった。

九条さん思い詰めたような顔は、いつの間にか穏やかな表情に変わっていた。「世の中施設で虐待事件があったら、すぐにニュースになるというのに」

私は頷く。確かに虐待はあってはいけないことだと思う。だが世間が知らない事情だってある。

私は鞄に書類を詰め込みながら「介護職員が殴られることがあっても、ニュースにはなならない」と返した。

人はなりたくて要介護状態になるわけではない。住み慣れた家を離れて生活するストレスだってあるだろう。

認知症になって自分の置かれた状況がわからなくなって、不安を感じることだってあるだろう。認知症になりたくてなる人はいない。

だが暴力は決して肯定されることではない。介護職が介護を必要とする人に暴力を振るわれることがあったしたら、それは放置されてはいけないと思う。

現場で働いているのは血の通った人間だ。

−−−−

早乙女さんに怒られないよう。書類の再チェックは怠らなかった。

五十嵐さんが落ち着いて過ごせるよう、再度施設から精神科受診の提案がなされるとのことだったが、それはどうなるかわからない。

調査員としての私の仕事は、あくまでも調査を受けた時点での状態がどうであったかを記入することだ。個人の想いや感想を調査票に書いたりはしない。

ただ、もし受診して五十嵐さんが落ち着くのであれば、それは五十嵐さんにとっても良いことではないかとの想いは抱く。

このまま不穏な状態が続くのであれば、最終的には施設での受け入れ困難となるかもしれない。そうすれば五十嵐さんの行き場もなくなってしまうかもしれない。

五十嵐さんに関わっている介護職だって、今のままなら離職する人がいるかもしれない。暴力は誰も幸せにしない。

調査票をまとめたら、次は普段のケアマネ業務だ。手帳のスケジュールを確認しながら訪問の順番を決めていく。

利用者のカルテを確認し、精神疾患のある方のカルテを取り出す。

次の受診を来週に控えているが、落ち着いた状態を維持できているだろうか。私はそれが気がかりだった。


福祉・介護ランキング

コメント

タイトルとURLをコピーしました