『職員への暴力』

介護

「では、詳しくお聞かせ願いましょうか」

「ええ…」

私と九条さん、2人だけになった相談室で私達は話始める。娘さんへの聞き取りは終わったがまだ帰るわけにはいかない。腑に落ちない点が多すぎる。

「念のため最初の項目から確認していきましょう。麻痺・拘縮はなし。座位、立位保持、寝返りはできる。立ち上がり、歩行、片脚での立位はつかまれば可能、でよろしいですか?」

「はい、それらはなんとか」

「問題は入浴ですね。本人は自分で洗っていると。娘さんの話でもそうでしたが…これは?」

「外部のデイサービスを利用して入浴してるんですが…、洗いのこしが多いですね。不十分なところはスタッフが介助しています」

やはりそうか…。『一部介助』にチェックをつけ、どれくらいの手間か確認する。特記事項に記載しなければ。

「移乗は介助なし。移動に関してはどうですか?」

「そこが一番困っているところなんですが…」

九条さんの表情は終始冴えない。重い口を開き始めた。

「居室から食堂に移動してもらったり、デイに行く日は玄関までお連れしなければいけないんですが…。『なんで俺が行かなきゃいけない』と聞き入れてもらえない時が多いんです」

移動の介助のポイントは、転倒の可能性があるので常に側に誰かがいないといけない状況や、車椅子を押さなければいけないといった手間があるかどうかだ。

見たところ歩行はやや不安定だから見守りが必要かもと思っていたが、そもそも移動することに納得しないのだから手間がかかるな。あまりないケースだが。

「お一人で玄関や食堂まで行くのはとても…。スタッフが説得してお連れするんですが、怒鳴り散らすのはしょっちゅうです。機嫌が悪い時は手を振りかざす時も…」

「…。殴る、とかは?」

「いえ、そこまでは…。でも五十嵐さんはまだ若くて男性でしょう?体格もいいし。スタッフが萎縮してしまっています」

確かに直接相対して、五十嵐さんは感情の起伏が激しそうに見えた。私も1つ1つ質問するのに細心の注意を払っていた。私が五十嵐さんと接するのは調査の時だけだが、常に介護をしている施設職員にかかる負担は私の比ではない。

「部屋の中でトイレに行くくらいなら問題がないように見えました」

「はい、それは大丈夫です」

「ですがいざ部屋から出ると見守りがなければ目的地には行けない。そして介助しようとすると抵抗する、ということですね」

九条さんは首肯する。特記事項の記載に悩むが…。

「排泄はどうでしょう。トイレには行けているとお聞きしていますが」

「だいたいは自分で行かれていて、紙パンツを使われています。自分で行かれてはいますが、週に2回くらいは衣服を尿で汚染されていますね」

「酷い汚染ですか?」

「明らかに見てわかるくらいですね。その状態で食堂に行っていただくわけにもいきませんし、スタッフが発見したら、お着替えをご提案するんですが…」

「素直に聞きそうな方には見えませんでした」

「ええ」

九条さんは苦笑しながら続ける。

「先日もスタッフが訪質したところ、衣服が汚れていました。それでやんわりとスタッフがお着替えを提案したんですが。もちろん言い方には気をつけていたんですが…」

九条さんは言い淀むが、明らかに良くないことが起きている。私は突っ込んで質問を重ねる。

「それでお怒りになりましたか」

「ええ…、それでその、スタッフがなだめながら接していたんですが、不意に…殴られてしまって」

…。メモを取る私の手が止まる。暴力事件だ。表沙汰にならないだけでこの手の話は今日もどこかの介護施設で起こっている。

認知症の進んだ方を受け入れている施設では噛まれたり引っかかれたりはしょっちゅうだと思う。

「これまでにもこんなことは?ご家族にも話は伝わっているのでしょうか?」

「2回目、ですかね。1回目はスタッフが不用意に近付き過ぎたのが悪かったのかもとなりましたが、気をつけていて起こっていたことですからご家族にもお伝えはしています」

「…いつの話でしょうか?」

「3日前ですね。ご家族は『私達で見ている時はそんなことはなかった。それはそちらの対応が悪かったからだろう』と、取り合ってもらえませんでした」

私は事故の聞き取りに来ているわけではない。あくまでも五十嵐さんの介護の手間を評価するために派遣されたただの調査員だ。

だが、ただならぬこの話に慎重に調査を進めざるを得なかった。少なくとも施設は対応に困っている。


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