クチコミ

-退職してからも元気だったんですよ。車の運転が好きな人でしてねえ。よくショッピングセンターまで行っていましたよ。

梅屋の妻はどこか懐かしそうに語り始めた。当人は別室でテレビをつけてくつろいでいるようだ。大きな音が離れた部屋まで聞こえてくる。

-最近はボーッとしてテレビを見てばっかりですよ。車の運転も5年くらい前かな…、「危ないからもう免許は返上する」と自分で言いました。その時はしっかりしてるように見えたんですけどねえ。

いつ頃からかしら、一緒に買い物に出かけても、何を買えばいいのかわからないという感じで…。お金の計算も出来なくなりましたね。前はホームセンターでいろいろ買ってきて、日曜大工でいろいろ作ってたんですよ。でもそれもいつ頃からかやらなくなってね、おかしいなと思ったけど、もう歳だから体がしんどいのかもしれないし、そっちに気がいってしまって。

物忘れですか?前からですが、どんどん酷くなってますよ。「財布はどこだ」「保険証は?」ってしょっちゅう探してた時期もありました。もっとも、最近は気にもしなくなったみたいですけれど。

いちばん困ったのは、ふらっと出かけて、なかなか帰って来なくなって、心配して待ってたらタクシーで帰ってくるということが何回もあった時です。「どこへ行ってたの?」って聞いても、要領を得ないんですよ。タクシー代も高く取られてました。今から考えれば、きっと道に迷ってたんですね。世の中にはそのまま行方不明になる人もいますものねえ。ひとつ間違えればそうなっていたのかもしれないと思うと、ゾッとします。

トイレは今のところちゃんと行ってます。歩けないわけではないので、それは助かるんですけど…。問題は、1人で外に出ようとするんですよ。病院に行くために一緒に歩いていても道がわからないのですから、出てしまったらどうなることやら…

ええ、機嫌の悪い時がありますよ。「何をいつまで寝てるんだ」ってこないだも叩き起されましたねえ。夜中の3時にですよ。私に何かあったら、1人ではとてもおいていけません。しっかりした人だったのに、こんな風になってしまうんですね

そこまで話すと、妻は肩を落とした。水貴達が訪れた時は明るく振舞っていたが、やはり介護のストレスが溜まっているのだろう。

「ありがとうございます。いろいろ教えて頂いて」とスミレ。いえいえとまた笑顔を作る妻、そしてやり取りを見守る水貴。

さて、と水貴は考え込む。普通ならこの時点で介護保険について大まかに説明し、ショートステイなりの具体的なサービスの話に移りたいところではあるのだが。問題は息子が不在だということだ。どうしても来れないのであればこの場で話を進めても良いが…

そう考えていた時、玄関が音を立てて開いた。

「ごめんごめん、遅くなった」と言いながら大柄な男が姿を現す。大柄というが突き出た腹が印象的だ。50代だというが、無地の、ゆるいTシャツを着ているせいか、どことなくゆるんだ表情のせいか若干幼く見えないこともない。この男が息子か。

「勇(いさむ)。もう来られてるのよ」咎めるように妻が言う。

「みたいだね。話は進んだ?どこまで話したの?」

せっかちな性分なのだろうか。ずいぶんと話を急ぐな。と思いつつ水貴はスミレの表情をうかがう。笑顔を崩してはいないが若干陰りがある。まあ、遅れて来て何も言われなければ気分は良くないのが当たり前である。水貴としても面白くない。

こちらがケアマネさんなのよ、と妻が促し、ようやく息子も頭を下げて「息子の勇です」と名乗った。

「ケアマネの斉藤です」「松原です」と同じく頭を下げて2人は応じる。

◇ ◇ ◇

遅れてやってきた息子からも事情を聞き、スミレが介護保険の大まかな説明を行った。ふんふん、と応じる息子は、一応は話をちゃんと聞いてはいるらしい。どこか真剣味に欠けるような態度に感じられたが、とりあえず水貴は話の流れを見守る。スミレの説明が要領を得ているので、特に口を挟む必要なしと判断する。

「やっぱり、さっき話に出たショートステイ?ですか。あれがいいんじゃないかなあ」

「そうね、でも気難しいところがあるから急に泊まりなんて大丈夫なのかしら」

「確かに最初はデイサービスなどの利用から始めるパターンが多いですよ。お風呂の手伝い大変だとお聞きしましたし。デイサービスなら入浴できます。…まあ、夜間の介護の疲れもあるようですし、期間を短めにしてショートステイ利用でもいいのかもしれません」スミレの説明にうん、と水貴も頷く。どう判断するかは家族側次第だ。

「とりあえずショートステイをお願いしたいですね」と息子はあっさりと決めた。「お風呂は母さんが手伝えばいいだろ?」事も無げに言う息子の態度が引っかかる。水貴は表情を崩さずにいたが、そう聞いた妻は困惑の表情を一瞬浮かべていた。

「まあ、あなたがそう言うなら…」と憮然とした表情を浮かべながら妻も応じるのでますます引っかかる。

スミレも違和感があったのか少し不安そうに水貴に視線を送る。

「では、ショートステイでの受け入れに応じてくれる事業所を探します」と水貴が答えた。初回訪問で、家族側で主導権を握っている息子の意見に沿った方が無難である。

息子は満足気に頷いて言葉を続ける。「じゃあどこがいいのか、クチコミを教えてください」

「クチコミ、ですか」唐突にクチコミと言われて流石に水貴も戸惑った。スミレの様子をちらっと伺うがやはり若干、困惑気味だ。

「そう、クチコミですよ。こういうのはね、クチコミで選ぶものなんですよ」何故か得意げに胸をそらしながら息子は言う。

「クチコミをご希望なら、私が知っている範囲のことはお話しますが」本音では無責任なクチコミなど話したくないし、悪い評判を立てるようなこともケアマネとしては言えない。

全く気乗りしなかったが、その場は水貴がいくつかの事業所の評判を話すことにした。

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