「タツマくん!!」
息を切って私は、マンションのドアを開けるか最上階に止まっていたエレベーターを待つことができず、階段を一気に駆け上がった。マンションに立ち入った瞬間、嫌な気配がしたのだ。暗く、生き物が腐ったような臭い…。不安に駆られていてもたってもいられなくなった。途中で電話を鳴らしても出ないし、今だって鍵がかかっていない。やはり何かがおかしい。
扉を開けて叫んでも、中からはなんの反応もない。1LDKの彼の部屋は、奥にもう1つドアがある。鍵がかかっていないということは彼は奥の部屋にいるのだろうか。取り敢えず私は玄関の灯りをつけようと、スイッチに手を伸ばした。
カチッと音がしたが、明かりは点かない。やむなく私は扉を開けたまま、マンションの廊下の灯りを頼りに、奥まで進んで行く。
どうしよう、次の部屋までが遠く感じる。そして…奥に進むにつれ、腐った臭いが強くなっていく。まさかこの臭いのもとは…いいや、そんなはずはない。私は頭に過ぎる最悪のケースを振り払うように頭を振り、意を決して部屋の扉を開けた。
「…タツマ、くん?」
微かな灯りが部屋に差し込み、私の視界に人の足が映る。
「タツマくん!?」
急いで人影に近寄り、体を抱える。温かい、息はある。しかし、体に触れた瞬間、奇妙な感覚を覚えた。
彼の体は黒い泥のようなものに塗れている。
「…って…さい」
彼の口から微かな声が漏れる。
「え?なに?」
私が声をあげた瞬間、視界の隅で黒い影のようなものがシュッと動いた。
私はそれを−その影を認識した瞬間、身体が動かなくなった。動かそうとしても動けないのだ。身体がすくんでいるとはこのことだろうか。恐怖のあまり振り向けない。振り向いてはいけないような気がする。
全身から汗が吹き出し、血の気が引いていくのを感じていた。この部屋から感じていた腐った臭い。それは私の背後にいる気配から発しているように感じた。見えないし振り向けない。だが、何故かそう感じてしまうのだ。
「…あ、あ」
私はもう声を発することもできなかった。何か言おうとしたが声にならない。黒い影から伸びた糸のようなものが壁中を這い上がり、私に近づいてくる。私の背中にも糸が伸びている。息さえも止まりそうに感じた。
カン、カン 遠くから音が響いてくる。これは幻聴なのか。でもその音は確かに近づいてくる。
「紗希ッ!!」
大きな、ハッキリとした声が部屋中に響き渡った。菫ちゃんだ。菫ちゃんが来てくれた。車で駆けつけてくれたのだ。彼女も来ると電話で話したばかりだったのに今の今までその事を考える余裕がなかった。
…でも、駄目。来たら駄目。あなたも巻き添えになる。「来ないで!」そう叫ぼうとしても声にならない。そのまま私は目の前が真っ暗になった
スミレは知っている。自分には人にはない不思議な力があることを。そしてその力があったとしてもどうにもならない事があることも。
スミレには見えていた。Twitterのオフ会で、近くに座った男が黒い糸にまとわりつかれていたことを。その黒い糸が見えた時、見の周りの人が不幸に見舞われるのを何度も目にしていた。黒い糸はなんだろうか。彼女にもはっきりとわからなかった。だが、それは人とは違う怪異や、憎しみや欲望といった人の負の感情に端を発しているのだろうと、彼女はこれまでの経験から本能的に察していた。
男からスミレに延びてくる糸を、彼女は念を込めて振り解いた。スミレに備わっている力でも対処できることだった。オフ会で彼女以外にも延びていく糸を、ひとつひとつ丁寧に、彼女は断ち切っていった。糸が自分の周囲に害を為す存在であることは明白だったし断ち切ることは要員だった、その時は。ただひとつ気がかりだったのは、その男から自分に馴染み深い人間にまで糸が延びようとしているのではないかと、本能的に悟ったことだった。
紗希からスミレに連絡が来たのはちょうどその時期だった。スミレは紗希が気がかりだった。幼馴染みの紗希は、高校生のあたりから親との折り合いが悪く、周囲からの負の感情や何らかの怪異を集めやすくなっていた−少なくともスミレにはそう見えていた。
しかし、しばらくぶりに再開した紗希は、そのような懸念をまるで払拭させるような凛々しい印象をスミレに与えた。聞けば、母親の病気のため勤めていた会社を辞めしばらく実家に戻るのだと言う。交際している彼も、紗希のために北海道にまで着いて来たのだと。なら、そう心配するようなこともないか…と思いつつ、スミレは紗希の周囲に不穏な気配を感じて訝しんでしまった。以前より明るい表情をしているかと思えばフッと影を落とすかのように表情が沈む。そんな時、彼女の背後に黒い糸が見えるような気がして、スミレはしばらく注意して紗希を見守ろうと思っていたのだった。
−彼から連絡がない、と紗希から聞いた時、嫌な予感が頭をもたげ、スミレは行くように促す。自分も行くから心配するなと。
紗希に遅れてマンションについた時、スミレは嫌な予感が的中してしまった、と内臓を掴まれたような感覚に襲われた。明らかに怪異の気配がする。紗希のすぐそこまで危険が迫っていると察知する。スミレは急いで階段を駆け上がった。廊下に出ると、扉が全開の部屋がある。中からは腐った臭いがする。紗希はあの中だ。
「紗希ッ!!」
部屋に飛び込むと、異様な気配が漂っている。スミレが今まで感じたこともないほどに強い気配だった。
俄に、スミレの目をに紗希と彼が黒い糸に覆われようとしている姿が飛び込んでくる。部屋の黒い影から糸が延びている。暗い部屋だが、目を凝らすと魚の頭をした人とも獣とも判別のつかない異形から糸が部屋中に延びているのがスミレにはわかった。
ここまで強大な力を持つ怪異と、スミレは相対したことがない。だが、スミレには見えていた。黒い糸をはねのけるように、一縷の白い糸が紗希の身体を守っていることを。
スミレは魚のような怪異には目もくれず、紗希の身体をまとう白い糸を掴む。縁(えにし)の糸。スミレは白い糸のことをそう呼んでいる。それは人と人のつながりや思い入れのようなものだ。きずなという言い方もあるのかもしれないが、人が人を想う心と、想われた人が想った人、想った人が属するこの世に抱く愛着を、えにしと呼ぶのが適切ではないかとスミレは何となく思っていた。
白い糸を掴み、スミレは念を込める。糸は念の力の媒体となり、スミレの念を増幅する。黒い糸は一瞬で振り解けた。
紗希の安全が確保されたことに安堵する間もなく、スミレは魚の怪異を睨めつける。いったいどこからこれが現れたのか想像もつかないが、紗希に手を出させるわけにはいかない。
「寄るな」
スミレの発した声が部屋に響き渡る。魚は微動だにしない。魚の口元は耳まで裂けているようで、半分縫われているようにも見える。どうやらこちらに襲いかかってくるようでもない。糸を振り解かれて、魚はこちらに手が出せないのかもしれない。
「帰れ!」
より一層の力を込めて叫ぶ。その瞬間、怪異は姿を消し、部屋に光が差し込んだように感じられた。紗希も彼も目を覚まさないようだが、脅威は去ったようだ。ようやく力が抜けたスミレは、電話をかけ救急車を要請した。
救急車を呼んで病院に付き添った私は、ようやく帰路につくことができた。帰宅したのは夜が明けようとしたころだ。病院についてしばらく、2人とも目を覚ました。2人とも前後のことを覚えていない。彼に至ってはここ数カ月の記憶が曖昧らしい。何か大事があったら私も事情の説明が大変だが、まあこれくらいならあれこれ詮索されることもないだろうか。
今回、怪異を追い払うことができたのはたまたまだと思う。自分の力によることもあるだろうが、紗希がしっかりしていなければ私は何もできなかっただろう。彼とは結婚も考えていたみたいだけど、今回の件でどうなるだろうか。いや、それは私が口を挟むことじゃない。まあアドバイスを求められたら、彼の仕事のことをよく知って、ちゃんとお互い話し合う時間を持ってそれから考えたらいいんじゃない?くらいは言うと思うけど。
そう思いながら私は、スマホを手にしてYouTubeを開く。
最近注目の映画ランキングをユーチューバーが喋っている。
微妙に間違ったことを言うことで話題の元芸人ユーチューバーだけど、映画なんてどうせ観に行かないから関係ない。
「私が選ぶ注目のアニメ映画第1位は!『鬼狩りの刀』!第2位『金の魂』!3位『崖の上のペペロ』!です!これらの作品の魅力はですね〜」
どれも微妙に間違っているのがイラッとしてすぐに消してしまった。だいたいペペロなんて何の話題にもなってないだろ。チケットと人形を大量に買い込んだ人が破産しただかなんだかんで悪いニュースにはなってたけど。やはりこういう時は寝るに限る。
「崖の上ってなんだよ。となりのペペロだろ」誰も聞いていないツッコミを口にしながら、私は布団に入るのだった。
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