主任さんは早く帰りたい

小説

「…はあ」

パソコンを前にして、思わずため息が漏れる。もう何回目のため息だろう。

看護師の宮崎さんが洗濯物を持って脱衣場から出てきた。

「宮崎さん、ありがとう。そっち手伝うわ」

「や、ここは1人でいいよ〜。そっちも大変じゃない?」

「そうなんだけどね…。さっきから全然進まないし、ちょっと気分転換」

「そうだよね〜、これ終わったら2人で考えようか」

宮崎さんと一緒に洗濯物を片付ける私は、暗い気分が頭をもたげていた。これくらいじゃ全然気分転換になりやしない。

私達が勤務するデイサービスは、医療法人が運営している。その法人は地域との連携を進めようと、定期的にイベントを開催している。法人の施設内でサロンを開いて、スタッフが演しものをしたりみんなでお茶を飲んで交流するのだ。

地域との連携を図っていくことは何も悪いことではない。そのこと自体に異論はないのだけど、今回に限っては憂鬱だった。

イベントの企画や告知は、法人に所属する各事業所が順番で担当することになっていた。演しものを考えて練習したり、ポスターや掲示物を作ったり、結構な手間がかかる。定期的なイベント開催を始めたばかりでまだまだ手探りだ。

演しものは決まった。イベントの司会進行は法人の福祉用具事業所が担当してくれる。向こうも準備は大変だろう。そして、私達は告知ポスターと事業所のアピールチラシの作成に行き詰っていた。

腹立たしいのは、このデイサービスの管理者の小阪主任が、ポスター作成を私達に丸投げしてしまったことだ。

「俺、今日は早く出勤したからもう上がるわ。ポスター作成よろしく」

そう言うと小阪主任はさっさと帰ってしまった。送迎が終わったら早速帰宅だ。いつもなら主任がいなくても仕事は十分回っているのだが、イベントを控えて忙しい時期にこれは困る。だいたい、普段からパソコンを使い慣れているのは主任じゃないか…

私だってパソコンは使うが、それは通所サービス計画を立てたり、ケアマネへの報告書を作ったりするくらいで、イラストやデザインを考えるなんて普段は全然やっていない。いきなりポスター作りなんて言われても困るのだ。

「藤野さん、これやっぱり無理だよ…。どうやっていいのか見当つかないや」

洗濯物を片付け終えた私達は、それぞれパソコンを使って試行錯誤はしてみるものの、まったく捗らなかった。

なんで私達がこんな…、苛立ちと焦りを感じながら、頭に浮かぶのは小阪主任の無責任な顔だ。もう全て投げ出してしまいたい、そこまで思った時、デイサービスの玄関の扉が静かに開いた。

「お疲れ様です」

扉から見慣れた顔が目に飛び込んでくる。

「水貴ちゃん…、お疲れ」

法人の系列の居宅介護支援事業所から、松原水貴ちゃんがやって来たのだ。彼女はケアマネとして3年前にうちの法人にやってきた。30代前半の彼女は、今まで別法人のデイサービスで働いていたのだが、ケアマネ取得を機にその法人を辞めた。ケアマネとして1から仕事を覚えるのも大変なのに、人間関係もガラッと変わってしまって、だいぶ苦労をしていた。

「サービス計画書を持ってきました。受領書はまた今度でいいですから」

そう言って彼女は書類を差し出す。水貴ちゃんは最近1人の利用者をこちらに紹介してくれた。体験した利用者はうちのデイサービスを気に入って、そのまますぐに利用することになったのだった。利用者が減って売上が低迷しているこちらとしては、週3回利用してくれるその方がありがたい。

水貴ちゃんはすぐにサービス計画書を持って来てくれる。当たり前のことだが、これがなかなかできていないケアマネもいるのだ。ケアマネからサービス計画書をもらわなければ通所介護計画書の作成も遅れてしまう。

「ありがとう!じゃあこれもらっておくから。ホラ、例のポスター作ってるんだけど、なかなか進まなくてさ…」

私と15才歳が離れている水貴ちゃんは、ケアマネとしては若い方だ。ケアマネ研修の時も一緒に研修を受けたグループは歳が離れた人ばっかりだったと言っていたっけ。最初は松原さんと呼んでいたが、最近はすっかり打ち解け、私も宮崎さんも水貴ちゃんと下の名前で呼ぶようになった。

「ポスター作り大変ですよね…。うちが担当した時も意見が別れてなかなかデザインが決まりませんでした」

そう言って水貴ちゃんは細身の紺のパーカーを脱いで、椅子に腰をおろす。宮崎さんは水貴ちゃんが来るなり、厨房からお茶を持って来ていた。ありがとうございます、と水貴ちゃんは器を手に取る。

「今日は主任さん、休みみたいですね?」

「いや、帰ったのよ。今日は早く出て来たから、って」

「ほう…」

「時間ないからポスターとは私達が作らないといけないんだけどさ、どうしたらいいか見当つかないのよね〜」

忌々しく私は言った。

水貴ちゃんはいろいろ察したような顔で、カバンからUSBを取り出す。

「実は、そうなっているんじゃないかと思っていました。ちょっとパソコン使っていいですか?」

「これは?」

私はUSBを見ながら、パソコンの前の席から離れる。まさか今からポスターを作るのを手伝ってくれるとでもいうのかな?いや、彼女も仕事があるのに、そこまでしてもらうわけにはいかない。

「ポスターはここに入ってます」

パソコンを操作し手早く水貴ちゃんはUSBから画像を展開する。驚いたことに、そこにはイラスト付きの可愛いポスターの画像が並んでいた。

「…! どうしたのこれ!?」

「こないだうちがポスター作りした時に、何パターンか作っておいたんですよ」

なんでもないことのように水貴ちゃんは言う。

「最終的に採用しなかったやつでも、再利用できるかなって思って。今回ちょっとだけ手を加えておきました」

「凄い!こんなの私達じゃできないよ。もらっていいの?」

宮崎さんも興奮している。

「そのために持って来たんですから」

水貴ちゃんは笑顔で言った。

「じゃ、事務所に戻りますから」

そう言ってお茶を飲んだ水貴ちゃんは、パーカーを羽織って事務所を後にしたのだった。正直、今日は残業を覚悟していたのだが、水貴ちゃんのおかげで定時に上がることができた。


「これ、どうやって作ったの?」

小阪主任が聞いてくる。

この人はわかって聞いている。私達にはポスターを作るなんてできない事を。日がなパソコンをいじって事業所のインスタグラムをアップしている小阪主任なら、ポスターを作るくらいはできるだろう。画像編集ソフトを使って加工とかもしているし。

自分ならポスター作りくらいはできるだろうに、何故か自分ではやろうとしない。私は知っている。小阪主任は営業と称して仕事中はインスタグラムばっかりして、仕事が終わった後は個人のnoteやTwitterでフォロワー稼ぎばかりしているのだ。個人のアカウントでイラストの加工やサムネイル作成は熱心にやるが、本業の方はまったく疎かなのだ。

なぜSNSばっかり熱心になるのか、私にはわからない。SNSを使って副業でもしたいんじゃないかなと水貴ちゃんは言っていたけど。そういう世界は私にはよくわからなかった。

「まあこれよくできてるから別にいいけど」

微妙に上からな目線の小阪主任に苛立ちを感じながらも、私はフロアの業務に戻る。

レクリエーションを進めていると、法人の偉いさんが玄関を通って入ってくるのが見えた。イベントの打ち合わせでもするのだろう。

奥から笑い声が聞こえてくる。

「いや〜、今回のポスターよくできてるじゃん」

「いうても、イラストはフリー素材のやつですけどね〜」

小阪主任の声に、どうしようもない苛立ちを覚えてしまう。今はレクリエーションに集中しなければ。

「…お前が言うな」

宮崎さんが利用者に聞こえない声で、ボソッと発したのを私は聞き逃さなかった。私は表情を変えずに心の中で強く頷いた。

何もしてないくせに、さも自分がやりました感を出すんじゃない。その日も小阪主任は定時前に帰ったのだった。


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