『医療保護入院』④

介護

柳光明病院の入り口前、松原水貴は約束の時間の15分前に到着する。

水貴は、早く着くのが嫌いだ。2時に訪問する約束をしていれば、2時丁度にならないと玄関のチャイムを鳴らさない。待ち合わせる場合は、5分以上前に着かないようにと自分の中で決めている。早く着きそうな時は決まってどこかで時間を潰す。

だが、今日に限っては別だった。

心の中は8割が不安、1割が期待、残りは決意…といったところか。そう水貴は自分を分析する。

程なく、反町貴子が歩いてくる姿を捉えた。水貴の手に思わず力が入り、握った手には汗をかいてしまっている。が、気取られないように、すぐに笑顔を作る。

「こんにちは」

「あの…ごめんなさいね、この間は私…」

挨拶をした水貴に反町が口にしたのは謝罪の言葉だ。主治医意見書を書いてもらうために、水貴は柳光明病院への受診を突きつけた。反町は激高し一度は突っぱねたものの、やはり受診をすると水貴に連絡を寄越したのだ。

一度は受診に繋げたが、上手くいかなかった。水貴の脳裏に前回の失敗が浮かび、不安で押し潰されそうになる。

「この間のことなんて気になさらないでくださいよ」そう言ってまた笑顔を作る。だが、この笑顔は自分を鼓舞するためのものだ。

「こうして今日もちゃんと来てくださったじゃないですか」

「本当にごめんなさいね。私、あなたには迷惑をかけてばっかりで、今日もついて来てもらっちゃって、なんと言っていいか…」

「そう言って頂けるだけでじゅうぶんですよ。まだ来たばかりじゃないですか。お礼は書類をしっかり書いてもらってから、ということで」

言葉をかけつつ、病院の入り口を抜けた水貴は、受付に目を向けた。

受付の方から精神保健福祉士の三田村が声をかけてくる。

「こんにちは。診察券をお預かりしますね。早速ですが、2階の待ち合いでお待ち頂けますか?」

「では反町さん、診察券を…。すみませんよろしくお願いします」

焦らないよう、表情を崩さないよう、水貴は病院に入るまで自分に言い聞かせていた。だが、ここに来て頭が徐々に冴えてくる。汗はいつの間にか引いていた。

2階に上がった水貴たちは、診察室のすぐ前のソファに腰かける。院内は静まり帰っていて、他に順番を待つ人はいない。

「なんだかこの間と違うわね」静かな院内で反町が話かけるが

「待たないで済んで良かったじゃないですか」と何食わぬ顔で返す。「それもそうね」と納得する反町を見て、さらに水貴の頭は冴えていく。

「どうぞ」と職員に声をかけられ、診察室に通された。椅子に腰掛けた平岩医師が、相変わらず快活な笑みを浮かべていた。「どうも、こんにちは」と声をかける平岩医師の様子には、普段と変わる素振りがない。

以前に訪れた時と少し違うのは、平岩医師の後ろに、看護師が2人立っていることだ。2人は特に表情を変えることもなく、ただ立っている。

「あれからどうですかね?ご近所からの音は、まだ聞こえますか?」

「全然何も変わらないのよ。真夜中でも大きな音を出して、歌い声がいつも聞こえて来て、向かいは工事の爆音だし、もうどうしていいのか…」

「うーん、相変わらずお困りの様子ですねぇ…」平岩医師は笑みを浮かべながら、目線を落とす。

「あまりにもそうした音に困っているのなら…入院するという方法もありますよ?」

「入院?私が?どうして?」入院という言葉に反応したか、反町は動揺を隠せない様子だ。「私が入院なんて冗談じゃないわよ!」徐々に口調が強く、表情も固くなっていく。

水貴は反町の近くに座りながら、黙ってその様子を見ていた。平岩医師の後ろの扉から、もう1人の男性職員が出てくる様子も黙って見ていた。

軽く顔を傾け、入り口の様子を確認する。すでに入り口からももう2人の職員が入って来ている。その変化に反町気づいている気配はない。平岩医師とのやり取りに集中している。

「まあ、入院するとは仰らないだろうと思っていましたよ。今からご説明させていただきますので、お聞きください」

「いったい何を言っているのよ!あなたは!」いよいよ反町は声を荒らげるが、その部屋の一同は何も動じていない。表情を変える素振りさえない。

「医療保護入院と言いまして、指定された専門医と、家族の同意の元に、入院が必要な方を入院させる制度があります。これには都道府県知事の許可も必要です。入院は期限を限って行い、その際は…」

「あなたはいったい何を言ってるの!私は入院なんてしないわよ!」声を上げる反町には動じず、平岩医師は事務的に説明文書を読み上げた。すでに入り口には車椅子が用意されている。このまま反町が抵抗しようとも、この車椅子に乗せらるのだ。

別室には反町の娘が控えている。入院の同意は、家族が行う。すでに手筈は整えているのだ。このまま手続きと治療方針の相談が娘と行われるのだ。

原則的には家族が病院に連れていくのだが、ケアマネが連れて来たというのは、レアケースにあたるのかもしれない。

「あなた!!なんとか言ったらどうなの!?」

「すみません。先生が入院が必要と仰っている以上、私は口を挟むことができません」反町が食ってかかってきたが、水貴が意に介することはない。言い訳の言葉が自然と口から出る。

そうこうしているうちに、反町は車椅子に乗せられた。そして奥の扉へと運ばれていく。

水貴はその様子を黙って見届けた。

「後はおまかせください。お疲れ様でした」気づくと後ろには三田村が立っていた。「ケアマネさんは大変ですね」

「いつものことですので…」水貴は軽く頭を下げ、その場を後にした。

ーーーーー

これは保健所と病院と家族と、全て打ち合わせの上で行われたことだった。

こうするしか無かったと水貴は自分に言い聞かせるが、それでも、他に手はなかったのかと、後から後から、複雑な気持ちは湧き上がってくる。そもそもこれはケアマネのする仕事ではない…

「仕方なかったですよ、包括センター長さんもまた水貴さんに感謝してるでしょうね」

ウイスキーを持って水貴の部屋に遊びに来ていたスミレは声をかける。疲れている水貴の姿を見てスミレは心配で仕方がなかった。

「そうかもね…」

水貴はウイスキーの香りを楽しみながら、少しづつグラスを傾ける。スミレと飲むのが最近はいちばん楽しい。1人分の料理を作るのも味気がない。水貴は料理を作り、遅くまで2人飲んだ。


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