『申請代行』

介護

「はい、倉橋です」

昼下がりの事務所にPHSの着信音が鳴る。電話に出たのは管理者の倉橋さんだ。

「はい…ええ、わかりました。誰かそちらに行かせますね」

病院の外来からの電話らしい。倉橋さんはパソコンに向かっていた私に目をやった。

「松原さん、今空いてる?ちょっと外来に行ってきてくれないかな」

「構いませんよ。何かありました?」

「外来の患者さん、介護で相談したいんだって。まだケアマネついてないみたい」

「わかりました。すぐ行きます」

そう言うと私は途中まで打っていた研修報告書を一時保存し、立ち上がった。

新規依頼か。珍しい。

ケアマネは担当を増やさなければ、報酬が増えない。当たり前の話だが、これがなかなかできないのだ。久しぶりの新規依頼…できれば利用につなげたいな。

私達の事務所は病院のすぐ隣だ。自動ドアが開いて外来の待ち合いに入ると、そこには受け付けの青木さんと、車椅子に座った女性、そして家族と思しき女性が話をしているところだった。

「あ、松原さん」

「介護のご相談と聞いて伺ったのですが…」

車椅子の女性の家族らしき人が、私を見て頭を下げる。私も挨拶をしてケアマネ証を見せた。

「ケアステーション柏でケアマネジャーをしています、松原と申します。よろしければ私がお伺いします」

「よろしくお願いします」

再度頭を下げる家族さんに、私は事情を聞くことにした。

−−−−

「…なるほど」

今回の患者さんは、溝端さん。82歳で、まだ介護認定を受けていない。1週間前から突然の腰痛で、今はまったく歩けない。

それまで身の周りのことは、ある程度できていたようだ。それにしては少し、いや長いことお風呂に入っていないようだけど…

溝端さんの髪は油分でべったりしていて、ところどころ絡まっている。肩甲骨のあたりまで伸びた髪は、何ヶ月切っていないのだろう?

「家に行ったらまったく歩けない状態で…驚いて病院に連れて来たんです」

一緒にいた女性は娘さんだった。本人は少し認知症の兆候が見受けられる。いったいどうして動けなくなったのか、自分で自分の状況をよく理解できないようだった。

かろうじて本人の話から、急に腰が痛くなって動けなくなったという事情が理解できた。だが、それ以上込み入った話は、聞いても要領を得ない。

娘さんの話では、溝端さんには同居している長男がいる。いちおう仕事には行っているようだが、勤め先はなかなかにブラックな職場環境で、給料が遅れたりしているらしい。自動車工場とのことだが、そんな勤め先あるんだな…

いちおう動けなくなった溝端さんをトイレに連れていったり、スーパーで惣菜やパンを買って帰って食べさせたりはしているそうだ。だが、見たところ服は着替えさせていない。これでご飯も食べさせていないのなら、ネグレクトで市に通報しているところだ。

「レントゲンの結果、椎体骨折していますね。ここの部分です」

再度診察室に呼ばれ、医師からの説明を一緒に聞いた。

早い話が圧迫骨折だ。加齢で脆くなった骨が、体重を支え切れず何かの拍子に潰れて骨折してしまう。高齢者ならよくある話だ。

忙しくて母親の面倒を見切れない長男に代わって、娘さんが月1回は顔を見に来ていた。それで今月母親の元を訪れたら、まったく動けなくなっている様子に驚き、慌てて受診したとのことだ。

今回娘さんが来ていなかったらどうなっていただろう、と思うと背筋が寒くなる。

娘さんは結婚していて家庭もあり溝端さんにはつきっきりになれない。これは介護保険を申請して、なんらかのサービスを使うしかないだろう。

この状況では、同居の息子はあまりアテにはできない。娘さんはしっかりしてそうだが、家庭もあり何でもはできない…

「お困りのようですし、介護保険を申請されたらどうでしょう?申請はこちらで代行します」

「介護保険って、どんなサービスを受けられるんですか?」

不安そうに尋ねる娘さんに私は説明する。

「そうですね。介護保険サービスでヘルパー自宅に来てもらうことができます。見たところ、お母様はトイレに行くのも大変というご様子ですし、ヘルパーに訪問してトイレへの誘導や、紙パンツの交換をしてもらうのもよいかと」

黙って聞く娘さんに私は続ける。

「他にも、デイサービスを利用して日中はそちらで過ごすのもよいかもしれません」

「デイサービス?」

「はい、ヘルパーも長い時間訪問できるわけではありませんし」

介護保険のヘルパーだってつきっきりで何でもするわけではない。できることには限界がある。

「見たところ、入浴も大変そうですし…。朝、デイサービスの職員が車で送迎に来ますので、車でデイサービスに行って、そこで入浴して昼食を食べてもらって、体操をして…という過ごし方ができます」

「それは、どれくらいお金がかかるんでしょうか?」

「介護保険の認定が降りれば、原則1割負担で利用できますね。デイサービスの食事は実費ですが…。稀に2割負担や3割負担の方もいらっしゃいますが、収入がよほど多い方だけですね」

これはあくまでも認定が降りればの話だ。そこは伝えておかないといけない。

「デイサービスの利用費用は介護度や利用時間にもよりますが…。1日1000円強、プラス食費で1700円くらいはみてもらった方がいいかもしれません」

「うーん…実際に費用を捻出するのは兄になると思いますので、それは相談しないといけません」

娘さんの言うことももっともだ。介護度が認定されたら1割負担で済むとは言え、逆に言えば1割は負担しなければならない。中にはその費用負担がキツいという人だって当然いる。

サービスを利用すればするほど、支払いは嵩む。無理にサービスつなげることは、褒められたものではない。しかし、家族では介護を担えないのであれば、なんらかのサービスは必要になってくる。

そして、そもそも介護保険の認定が出なければ、サービスの利用自体ができない。

「ともあれ、介護保険の申請はした方がいいと思います。どんなサービスを使うかは、相談して決めましょう」

介護保険は申請してすぐに結果が出るものではない。認定が出るまで、おおむね1ヶ月。困っているならば、介護保険を申請しておかなければ打つ手がない。

「申請はこちらで代行できます」

介護保険は本人と家族が申請する他、居宅介護支援事業所(ケアマネ事業所)や地域包括支援センターが申請できる。申請自体はそれほど難しいものではないが、まったくの一般人が申請するのは不安もあるだろう。

まずは申請を代行するところから始まりだ。

「申請…お願いできますか?兄には後で説明しておきます」

「わかりました。では介護保険証はお持ちですか?」

幸い、介護保険証は娘さんが持ってきていた。健康保険証とひとまとめにして、病院に持ってきていたようだ。話が早くて助かる。

申請を提出したら、次は認定調査だ。認定調査員に、本人の様子を見てもらわないといけない。調査の立ち会いを誰がするか、日程の調整を誰がするか、確認できることはこの場で確認しなければ。

私は準備していた申請書を見せ、内容を説明する。介護保険証で被保険者証番号を確認しながら、早速私は申請書の記入を始めるのだった。

−−−−

「新規申請です。お願いします」

数時間後には私は役所の窓口にいた。

「では今日付けの申請でお受けします」

1月15日。提出した日から、介護保険は有効になる。仮に2月15日に要介護2で認定されると、1月15日から介護2の内容でサービスが有効になる。

暫定利用と言うものなのだが、申請を提出した日から介護保険サービスを利用しても大丈夫なのだ。アテが外れて『自立』と認定されると目も当てられないが…

「お困りなんですね。早めに調査に伺えるようにします。日にちも今決めましょうか?1月21日なら調査員が空いてますが、その日9時半でどうでしょう?」

「そこで抑えてください。ダメだったら変更お願いしますけど」

新規申請なので、市町村の調査員が調査を担当することになる。窓口担当者とのやり取りで、すんなり過ぎるほど日程は早く決まった。

事務所に戻って、娘さんの携帯に確認の連絡を入れる。

その日で問題のないとのことだった。その日は息子さんも立ち会ってくれるとのこと。

「さっきのサービスの話ですけど、しばらく私は毎日母のところに行きますので、ヘルパーさんはいいです。お風呂に入れてあげたいので、デイサービスを利用できればと思ってるんですけど…」

「わかりました。デイサービスが利用できるよう、体験の手配もしておきます。何かあったらまた」

認定は…今回のケースなら介護度は出るだろう。娘さんの介護に頼るのも限界がありそうだ。

早めに動いていかなければ。そう思い私は受話器をあげ番号を押す。

2回のコール音の後、すぐに電話がつがった。

「お電話ありがとうございます。柏デイサービス藤野です」

「お疲れさまです。ケアステーションの松原です。体験の相談したいんですけど」

電話に出た藤野さんに、早速私は事例の概要を伝えるのだった。


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