手詰まりだな。
心の中で水貴はつぶやき、苦虫を噛み潰したような顔になる。水貴は包括支援センターの長澤と井上の元に報告に訪れていた。
事の次第を聞いた長澤も、腕を組み難しい顔をするしかなかった。
「せっかく松原さんが病院に付き添ってくださったのに…」心配そうに口にする井上に対して、水貴は苦笑いを返すしかなかった。
「ヘルパーに対する被害妄想も相変わらずです」水貴の言葉に一同は再び沈黙する。
拒否がある以上、ヘルパーが無理に訪問することはできない。統合失調症と診断されたとて、本人に病識があるわけではない。薬を処方されても、飲まなければなんの意味もない。誰かが無理やり薬を飲ませるわけにはいかない。反町は独居だ。家族がいたとしてもどうにもならないだろう。
「医療保護入院、という手もあるかも」しばしの沈黙の後、長澤は意を決したようにつぶやいた。
その言葉に水貴ははっと息を飲む。
医療保護入院は精神疾患の患者本人が同意していなくとも、指定を受けた精神科の医師、家族の同意のもとに患者を入院させる制度だ。入院には期限が定められており、また本人の意に反して入院させる制度であることから、手続きも厳しい。
「統合失調症とわかったんだから、確かに」井上も顔を上げ、長澤の方を見やる。
だが、誰がどうやって反町を病院に連れて行くか。その点がネックになる。3人はそれぞれ思いを巡らす。
水貴は長澤と井上を交互に見て、言った。「少なくとも、娘さんの同意が必須になりますね」2人は静かに頷く。
「松原さんは娘さんとお話したと言ってましたよね?協力してもらえそうですか?」
「医療保護入院となると、なんとも。ただ反町さんの事を心配していることだけは確かです」そこまでは水貴にも確信が持てない。そもそもこの話自体が、支援者同士で話している思いつきに過ぎない。本人には判断が難しい事柄となれば、家族の意向が重要な要素となる。
話は娘を包括支援センターに招き、ケースカンファレンスによってまとめる事になった。保健所の精神保健担当にも協力を要請したいと長澤は主張した。家族に連絡し、日程をまとめるのは水貴だ。
最終的にどう対処するか、決定には時間がかかる。だが水貴にはのんびりと構える余裕は与えられていなかった。
−−−−
「医療保護入院、ですか…」反町の娘、灰原には受け入れ難い話なのだろうか。声は淀み、迷いや疑問が伝わってくる。
「もちろん、私どもだけで決めるような話ではありません」落ち着き払った声で、穏やかな口調となるよう細心の注意を払い、水貴は受話器に語りかける。
「母が納得して治療を受けられるようにはできませんか?」
それができるならとっくにそうしている。と水貴は答えたかったが、それを口にするわけにはいかない。「これまでにもいろんな人が説得して来た事ですからね…」水貴は声を落とし言葉を続ける。
「状況を整理するためにも、一度直接お会いしてお話をお伺いしたいです。ご家族はどう考えておられるのか、お聞きした上でいろいろ考えていきましょう」
「…わかりました」水貴の言葉に灰原はそう答えるしかなかったのだろうか、短い返事が返って来た。その後のやり取りで日程が決まり、電話を終える。水貴は手帳に予定を書き込む。
医療保護入院以外に手はないのか、水貴は散々考えあぐねていた。医療保護入院させるとして、誰がどうやって病院に連れて行くかも見当がつかない状況だ。だがそれでも話し合うしかない。
「本人が納得して治療を受けることなんて、絶対にないだろうけど」
思わず本音が口から漏れてしまっていた。
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