主任さんは早く帰りたい②:前編

小説

「ああ、もう…」

ハンドルを握る手に、思わず力がこもる。いつもは混む時間じゃないのに、今日に限ってなかなか前に進まない。

「や、大丈夫だよ。このペースなら間に合うって」

助手席から松原水貴が落ち着き払った声で言う。

同乗者がいることも忘れ、思わず声まで出してしまっていた。スミレは水貴の声を聞き、ふと我に返る。確かに焦っても仕方がない。だがスミレは焦らずにはいられないでいた。

できるだけ早く戻らなければ。そう思いスミレは車を走らせていた。


「斎藤さん、この日都合つく?急で悪いけど、どうしても外せない用事が入っちゃってさあ」

相談員の上山さんから声をかけられたのは1週間前だ。スミレが所属する社会福祉法人の姉妹法人である医療法人が、その日にイベントを企画していた。本来ならイベントの運営はその医療法人が独自で運営するべきだが、人手不足が深刻でスミレの社会福祉法人に応援が要請されていた。上山さんは社員としてイベントの応援に行く予定だった。しかし、家庭の事情でどうしても都合がつかないという。

斎藤スミレは手帳を開いてスケジュールを確認する。重要な案件はないし、これなら代わって大丈夫だろう。

「いいですよ、私行けますから。上山さんも大変ですね」

困った時はお互い様だ。上山さんにはいつも助けてもらっている。断る理由がない。スミレは笑顔で応じた。

「ゴメンね、当日は向こうの課長さんたちが指示出してくれるから。私達はあくまで応援だし」

申し訳ないと何度も謝る上山さんに、スミレは当日の進行を確認する。あくまでも補助的な仕事だから何とかなるだろう。どんなイベントになるのか、スミレはむしろ興味深いと思っていた。


「松原さんはここお願いね。ジュースを渡すときはしっかり水を拭き取ってね。紙袋が濡れちゃうから」

「はい、何かあったら他にも応援に行きますから」

そう答えながら私はモヤモヤするものを感じていた。−この量で大丈夫か?正直、この持ち場がいちばん不安なんだけど…。

「水貴ちゃん、氷持って来た。クーラーボックスの準備出来てる?」

「ああ、藤野さん重いのにすいません。準備大丈夫ですよ」

私と藤野さんの2人で水を張ったクーラーボックスに氷を入れていく。氷はこれだけあれば十分だろう。氷の量は大丈夫だ。氷の量は。

「割りかししっかり入るクーラーボックスだよね。これなら一気に飲み物冷やせるし」

「宮崎さんが大きいクーラーボックス持ってて助かりましたね」

イベントの来場客に冷えた飲み物を渡すために、宮崎さんは自宅からクーラーボックスを3つも提供してくれた。今日はイベントに来たお客さんに、お礼として飲み物を配っていく。3つもあればお客さんが一気に来たとしても冷えた飲み物を準備するには充分だろう。

飲み物も炭酸飲料からコーヒー、お茶と種類を充実させている。藤野さんがお客さんから注文を聞き、私がクーラーボックスから飲み物を取り出し、水気を拭き取ってから渡していく。お客さんが集中しやすいが、藤野さんは手際がいいし大丈夫だろう。その点はまったく心配ない。

しかし符に落ちない。イベントの運営に参加することはまったく異論はないけれど、肝心の小阪主任は何をやってるんだろう。さっきだって宮本課長が指示を出していたけど、こういうのはデイサービスの管理者を務める小阪主任の役割じゃないのか?

「私イベントに出るの始めてだし、今日はよろしくね」

「こちらこそ。頑張りましょうね」

気合の入っている藤野さんに私も笑顔で応じる。細かいことをいちいち考えていたって仕方がない。イベントはもうすぐ始まるのだから、頑張るしかない。

イベント開始までもう少し。飲み物が冷えるまで十分だ。この分だとさしあたってお客さんには冷えた飲み物を渡せるな。自分にそう言い聞かせ、私は目の前の仕事に集中することにした。

私は前回のイベントでも飲み物配りを担当している。今回初参加の藤野さんも気合が入っている。余計なことを考えている暇はない。

「お客さん入りま〜す」

遠くから小阪主任の声が聞こえる。いよいよ開場か。小阪主任は元気だな。


まさかこんなに忙しいとは…。

思った以上のお客さんの入りに私は焦っていた。開場の案内役を任せてたいた私は、勢いに圧倒されていた。開場から2時間、医療法人が運営するケアセンターにはお客さんが次々と訪れていた。

普段はケアマネの事務所や訪問看護の事務所として使われているこの建物は、通所リハビリも開設しけっこうなスペースが設けられている。2階建てのこのケアセンターは1階で演じものと福祉用具の展示、2階でバザーが行われ賑わっていたで思った以上にお客さんが入っていた。聞けば、前回のイベントもこれくらいのお客さんが入っていたという。それはうちにも応援の要請がかかるはずだ。

「斎藤さん!ゴメン、2階のバザーの応援に行ってくれる!?」

「ええ、私がですか!?」

急に男の人から声をかけられ、思わず声が裏返ってしまった。この人は確か医療法人のデイサービスの主任、小阪さんだ。

小阪主任はさっきから写真撮影や町内会長さんへの挨拶で忙しそうにしていた。それはさておき、バザーの段取りなんてわからない。急に言われても足手まといにならないだろうか…

「バザーの手伝いは宮崎さんに言ってあるから大丈夫!今は手が足りないから袋詰めだけでも手伝ってあげて!」

力強く促す小阪主任に言われるがまま、私はバザー会場に慌てて向かうのだった。


「いや〜、斎藤さんが来てくれて助かったよ〜。ありがとうね」

宮崎さんが屈託のない笑顔で話しかける。昼過ぎまで盛況だったが、客足がポツリポツリと途切れるようになってきた。宮崎さんはデイサービスで看護師をやっているのだという。一時はどうなるかと思ったが、話しやすい人で助かったと私は安堵していた。

「これでちょっとゆっくりできますね…」

普段は関わらない人とも関われるのは悪くないと思っていた。このイベントは法人と地域住民との触れ合いの場を主目的にしているが、系列の法人でなかなか関わりのない人とも一緒に仕事ができるのは、ある意味刺激的だ。大変だったがそう思えば今回のイベント運営に参加できたのは悪いことではないと思っていた。

「誰か!動ける人いる!?」

扉を開けて小阪主任が声をかける。何かあったのだろうか?

事情を聞くと、予想以上の客足で準備していた飲み物が足りないのだと言う。至急車を出して近くのスーパーに買いに行かなければお客さんに飲み物が行き渡らない。

「私、行きますよ。今だったら離れても大丈夫だろうし」

「助かる!悪いけど駐車場に車あるからすぐ行って来てくれる!?」

「私も行きますよ」

そう言って女の人が声をかけてきた。確かこの人はケアマネの松原さんだ。同じ時期に法人に入った人で多少の面識がある。

「飲み物を運ぶなら人手が要りますし」

松原さんは汗を拭い、小阪主任に駆け寄る。

「ちょっと多めに買って、余ったらしょうがないって感じでいいですね?」

話はすぐにまとまり、近くのスーパーに車を走らせることになった。運転するのは私だ。急いで買って戻らなければ。

「斎藤さん、スーパーへの道、大丈夫ですよね?」

「大丈夫です。この辺の道慣れてますから!」

普段は穏やかな表情の松原さんだが、さすがに今日は表情が険しい。私は焦りを抑えながらハンドルを握った。

《続く》


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