コーヒー好きの荒川さん

コーヒー好きの荒川さん

「…これでよし、と」

利用者の食事量をチェックして、書類への記入は済ませた。さあ次は連絡帳の記入だ。

デイサービスの1日は忙しい。ケアマネとして働くのもやりがいがあって楽しいが、やっぱり現場の緊張感を感じていたい。介護職の経験は、いろんなところで積んできた。ケアマネ試験も研修も大変だったが、夫も家事をフォローしてくれた。娘も高校生になれば、手がかかることもそれほどない。

ケアマネの仕事も楽しかった。いろんな人と情報交換できる。事業所の都合で事務所を閉鎖することになってしまったのは残念だ。でもいつまでも悔やんでいたって仕方がない。私は私のできる事をするだけだ。

新しい仕事もすぐに見つかった。買物帰りに見つけた職員募集の貼り紙。

「こんなところにデイサービスなんてあったっけ?」

窓から覗き込むと、職員と利用者が編み物をして楽しそうにしていた。小ぢんまりしているけど、雰囲気は良さそうだ。貼り紙で職員募集するなんて、考えてみればあまりないな。貼り紙も手作りだけど、なんだか可愛らしい。素朴な感じが心をくすぐる。ちょうど送迎から帰ってきた職員さんに尋ねてみると、職員の急な退職で困っているらしい。話しているうちに、良かったらうちで働いてみないですかと誘われた。立ち上げたばかりの事業所だし、ケアマネ資格持ちで経験豊富な人に来てもらえるなんてありがたいとのこと。やっぱり資格と経験は強い。

「鮎川さん、連絡帳書くの手伝うから」

「あっ、荒川さん助かります!」

鮎川さんは20代。介護職は2年目。まだ若いのにしっかりしてるなと思う。何よりも素直だ。こういう子は教えがいがある。

1ヶ月も働いていれば、職場の問題点もいろいろと見えてくる。アットホームで雰囲気がいい。最初に感じた印象は変わっていない。ただその裏返しか、ユルイと言えばユルイ。家族経営で、管理者をやっているのは経営者の息子。ケアマネとのやり取りはしっかりしてくれてるけど、どうも職員の教育が行き届いている感じがしない。

午前中だって、私がフォローをしなければレクリエーションがグダグダだった。今日のレクリエーション当番はあの子だ。入って2ヶ月のあの子。

デイサービスはチームワークだ。まず自分に与えられた仕事はしっかりこなす。それができていなければチームワークなんて成り立たない。

まだ2ヶ月なんだから、とは思うけど、与えられた仕事に対する責任感が感じられない。一生懸命やってみて、それでもできないのなら進んでフォローする。でもあの子からはその気構えが感じられない。

「ほら、今日の当番でしょ?自分からしっかり仕切らないと」

「はあ…。はい。」

…なんなのかしら?あの態度。正直利用者とのコミュニケーションが全然なっちゃいない。先輩に対してあの態度なんだから、こんなんじゃ介護職として以前に社会人失格。あんなの注意しない管理者も管理者だ。

「…まったく。なんなのかしらあの子。」

「え?」

…思ったことが口に出てしまっていた。入浴中の白石さんが尋ねてくる。

「あっ、いやなんでも…。ごめんなさいねえ白石さん。うちのデイいろいろ行き届いていなくって。」

「そんなことないよ。みんなよくやってくれてるって。」

笑顔で白石さんは返してくれる。白石さんは入浴が好きだ。今日はなかなか仕事が捗らなくて、午後からの入浴になってしまったが、その分ゆっくりお風呂を楽しんで欲しい。お風呂に浸かると白石さんはご機嫌でいろんな事を話してくれる。ゆっくり利用者さんの話を聞く、それが普段からのコミュニケーションを円滑にするのだ。

「荒川さん、お風呂上がりの準備、バッチリ出来てるからね!」

脱衣場から千秋さんの元気な声が響いてくる。千秋さんは私と同い年だ。派遣でいろんな職場の経験を積んできた彼女もベテランだ。子育てに仕事に、なんにでも一生懸命だ。何より動きがテキパキしている。一緒にいて楽しいタイプだ。今日も何も言わないでも私のフォローに動いてくれている。仕事とはこうでなくては。周りを見て自分のするべき事を見つける。仕事は自分から動くものだ。

入浴介助を終えた私は、フロアを見渡していつもの光景に呆れる。

あの子はまたのんびりと、トランプのレクリエーションに付きっきりだ。もうおやつの準備を始めなければ、この後の仕事が遅れるじゃない。コーヒーメーカーのランプが点いている。早くお湯を注いで、コーヒーを作ってしまわないと。

「あ、ああ…荒川さん、コーヒーの準備私がやりますから…」

珍しく自分から来たわね。でも、なんでそんな不服そうな顔なの?

「いいわよ、私がやるから。あなたはおやつを早く準備して頂戴。」

「…わかりました。」

だからどうしそう不服そうなの?はい!と形だけでもハキハキ喋れないわけ?

言っているうちに抽出されたコーヒーが器に溜まってきた。次はカップを出して砂糖とクリームを…

デイの1日は忙しい。あっという間におやつの時間だ。食べたら早帰りの人から順に送迎していく。パート勤務の私の時間はここまでだ。ここまでやったら後は比較的ゆったりだ。私は帰ったらまた、溜まった家事をこなしていかないといけないのだが…。まあ、それは後で考えるとして、おやつの時間はコーヒーをゆっくり楽しもう。ここのコーヒーメーカーは先週契約したばかりのリース品だ。専用の豆はちょっと高いらしいけど、それだけに味もいい。ちょっと贅沢な気分を仕事の最後に味わえるのは悪くない。そう思って私はカップを手に取る。

…あれ?このコーヒーってこんな味だったっけ?

「なんか今日のコーヒー、ちょっと温くない?」

管理者も少し首を傾げている。そう言えば今日は少し温いような…

「…すいません、私がちゃんと見ていませんでした。コーヒーメーカーの保温スイッチ、切れちゃってたみたいですね。」

…また、あの子だ。コーヒーメーカーのスイッチだけ入れて保温スイッチを入れてないなんて。

利用者との会話は難しい。介護職に入ったばかりの若い子がそこで行き詰まってしまうのはわからないでもない。でもそこまで気が利かないって正直どうなの。

「そうだったの。次から気をつけてね」

相変わらずこの管理者は甘い。コーヒーくらいでと言えばそれまでだけど、普段からピシッと言わないから、こういう盆ミスをやらかすのだ。

せっかくのコーヒーが、台無しになっちゃったなあ。そう思いながら私は、コーヒーを飲み干したのだった。

新人は挫けない

今日も散々だったなあ…

憂鬱な気分で私はカルテをまとめる。入って2ヶ月か…。正直、向いてないのかなという想いが頭を過ぎる。接客業の経験はあるが、高齢者との会話は勝手が違う。思うように会話が進まない。話がすぐに途切れてしまう。

「また悩んでる?あまり思い詰めない方がいいよ。」

鮎川さんが声をかけてくれた。この人はいつも気にかけてくれる。いろんな人に気を使ってばかりで疲れないのかな。私が悩んでいるのはコミュニケーションのことだけじゃない。覚える事はいっぱいあるし、レクリエーションの段取りから配膳、今だってカルテ記入はどういう風に書いたらいいのか、なかなかペンが進まない。

「そうそう、ちゃんと成長していると思うよ!正直、今日のレクリエーション、無茶振りされたのによく頑張ってたよ。」

千秋さんもフォローしてくれた。確かに今日は我ながらよく頑張ったと言えるのかもしれない。私の悩みは介護職の難しさだけではないな。

いつの間にか今日のレクリエーション当番になっていた。本来なら今日のレクリエーション当番は荒川さんだったんだけど、荒川さんは前回の出勤時で急に休んだスタッフの代わりにレクリエーション当番を引き受けたらしい。それで2回連続でレクリエーションを担当するのはおかしいと言い出したのだ。まあそれはいい。問題は今日になっていきなり言い出したことだ。正直、準備する時間がもうちょっと欲しかった。

私が送迎の付き添いに出ている間にそれが決まったのも釈然としない。戻ってきていきなり今日の当番だと言われても困るし、私がいる場で相談して欲しいものだ。

鮎川さんが代わりに、と申し出てくれたそうだが、荒川さんがあの子1人で仕切れるように経験を積ませないと、と取り合わなかったらしい。…そして今日は、いや今日も、それだけでは済まなかった。

正直、午後からの入浴で何人もスタッフが集まる必要性が皆目見当がつかない。お風呂にかける時間も長過ぎた。お風呂から荒川さんの笑い声が聞こえてきたけど、利用者さんとのコミュニケーションと言えば聞こえはいい。だけどフロアも手薄なんだから、こっちを手伝ってくれてもいいのではないだろうか?千秋さんが声かけてくれなかったらもっと時間かかってたんじゃないだろうか。

「コーヒーのこともね〜、私前に言ったんだけどね。保温スイッチを先に入れたら熱で容器が割れちゃうから、お湯入れてから入れるようにって。あんまり聞いてなかったのかな。」

「お湯を一気に入れてましたしね…。何回かに分けて注がないと、薄いコーヒーになっちゃうから。」

鮎川さんも気づいていたみたい。あのコーヒーね。確かにそうね。保温スイッチもやらかしそうな気はしてたけど、私はお菓子の準備に行かされたし、フォロー仕切れなかった。レクで忙しかった鮎川さんと、千秋さんはお風呂掃除で対応できず。管理者も気を回してくれても良かったのに、と内心思っている。

「まあ、荒川さんあんな感じの人だし、悪い人じゃないけどね。何か言われてもあんま気にすることないよ。」

と、千秋さんはフォローを入れてくれる。

「いや、それは大丈夫ですよ。いちいち気にしても仕方がないし。」

半ば無理矢理自分に言い聞かせるように、私は答える。

「そうそう、ちょっと配慮が足りないところもあるけどさ、私達も気をつけておくから。ね、雪乃ちゃん。」

今でも十分良くしてもらっていると思う。それに自分でも荒川さんに何か言われた時に、反抗的な態度になってしまっているんじゃないかとも思っている。千秋さんと鮎川さんに応えるために、私も大人にならないと。

確かに荒川さんは悪い人と言うよりも、ちょっと天然なところがあるだけなのかもしれない。どこの職場にも変わった人はいる。物は見方だ、前向きにいこう。悪く考えても仕方がない。それに…

荒川さんが面接の時に大根を抱えて来たのって、考えようによってはちょっと笑えるエピソードじゃないか。

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