議論は相手を打ち負かすためにするものではない

社会
雪乃
雪乃

いつもありがとうございます。先日、コロナ対策に関する投稿で、ある方から反論を頂き、こちらも反論して議論する形になったのですが少々疲れてしまいました。気持ちを切り替えて、そもそも議論とはなんのためにするのか?私の認識をまとめておくことにします。

議論とはより良い答えを導くための共同作業

議論という言葉はよく使われます。しかし本来の議論がなんであるのかあまり理解されていない。

Aという意見の持ち主とBという意見の持ち主がいるとしましょう。ここでAが正しいかBが正しいか、お互いに話をして決着をつけるという流れになることがよくあります。これは現実でもそうなりますし、ネットでのやり取りだと特に顕著ではないでしょうか。

どちらが正しいか決着をつけるというのは『討論(ディベート)』のやり方です。自分の正しさを論理的に説明し、意見に賛同できない人を説得するという行為も時には必要なので、これを全否定するものではありません。

しかし現実的には職場内や家庭などで、課題に対しての解決策を話しあうといった場合、「どちらが正しいのか」というのは二の次のことではないでしょうか。

課題に対しての解決策Aと解決策B、どちらがよいかと話し合いをするとして、一番重要なのは『より良い解決策を導きだすこと』だと思っています。

持論の正しさにこだわるより、相手の意見のここはいい、自分の意見のここは良くない、等を突き詰めて考えていくと、議論の参加者の中で『より良い解決策C』にたどり着くことがあります。それは今まで考えつかなかったようなことかもしれませんし、両者の意見の折衷案かもしれません。このより良い答えを導きだすことを『止揚(しよう)』と言います。ドイツ語だとアウフヘーベン(小池百合子も使っていたそうです)。本当の議論とはこのような過程に至るために、持論の正しさにこだわったり、ましてや相手を言い負かすことを目的にするものではありません。

まあそこまで至らなくとも、互いの関係性の中でやり取りをしているのですから、相手を尊重する姿勢は最低限必要なのではないかと思います。

私はこの考え方をK大学のF教授という方の本で学びました(いい本なのですが敢えて名前は出しません)。

F教授はこんなことも言っています。

お互いがマナー、節度を持ち、より良い答えを出すために協力することで初めて議論は成り立つ。相手を言い負かすことしか考えない、議論のできない人というのが世の中に一定数いて、そういう人が議論に参加するともう議論は成り立たない。そういう人は相手の意見に耳を傾けるべき時でも譲らず、時として詭弁を弄してでも相手を言い負かそうとさえする…

とのことです。そうならないように気をつけたいものですね。私はそこまでできた人間ではないですが。

攻撃的になったり詭弁を使えば議論は終わり

こう見えて私だって極力、議論では相手を言い負かすことにこだわらないようにしているのです。最初から相手の言い分を全否定しようとはしていません。

相手の言い分を否定することはありますが、受け入れられる部分は受け入れようとは思っているのです。

相手の言い分を否定する場合でも、根拠を持って否定するように心がけています。

しかし、相手が詭弁を使ってきたり、攻撃的と感じる場合に私は議論を諦めます。より良い解を見つけるなんて期待できませんから。

先日のコロナ対策の一件ですが、某氏から私に対する反論が届いたので、私は私の意見を組み立て、私が正しいと思うように述べてみました。私の意見がすべて正しいわけではないので、相手がそれなりの説明をしてくれれば、受け入れようと思っていました。

…ですが、残念ながら最終的には実りある議論とはならなかったようです。最終的に相手はこのようなことを言い出しました。

某氏
某氏

コロナを5類感染症に指定するべきだ。なぜなら医療資源の使い方からして、それが当然のことだからだ。

…コロナを5類感染症に指定するべきかどうかは、議論の中で話あっていたことです。それを当然のこととして解を導きだそうとすることから、これは論点先取の詭弁です。

またコロナを5類感染症にするべきだ。→なぜならそれが当然だからだ。→だからコロナを5類感染症にするべきなのだ。

と議論がぐるぐる回ります。循環論法という詭弁の一種になります。論点先取するとたいがいこうした論法になります。

さらに

某氏
某氏

今はコロナに社会が過剰対応し過ぎで、最底辺の馬鹿に合わせて大騒ぎをしているようなものだ。大騒ぎし過ぎ。

私は当たり前の事を述べているだけなのに、それが伝わらない。それはあなたが普段から人を馬鹿にしているから、当たり前のことがわからなくなっているからだ。

…言葉もありません。コロナ対策には、一般社会で確かに過剰に怯えているのではないかと思うような人もいます。しかしそういう人を最底辺の馬鹿と言ってのけるのはさすがに感心しません。

また私が普段から人の事を馬鹿にしているとありますが、某氏の言うように私が普段から人の事を馬鹿にしているということも充分あり得るでしょう。だが、だからといってそれは私の意見が間違っていることの証明にはなりません。これは対人論証の詭弁です。

また、ここだけを見ると、私には人を馬鹿にしているのは某氏のように思われるのですが…

このような結果になってしまったのは残念です。私の力不足や説明不足もあったのでしょうが、このように詭弁を使われると、話をする気が失せてしまいます。気分だって良くないですしね。

というわけで某氏にはF教授の本でも読んで、議論とは何かを考えて頂きたいと思ったのでした。

もっとも某氏は、F教授のお弟子さんなんですけどね。コロナはたいしたことがないのでそんなに対策しなくてもいいというのはF教授の受け売りのようです。別に受け売りであっても私は構わないのですが、自分の意見が正しいというのなら、詭弁ではなく根拠を添えて欲しいものです。話はそれから。


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