コンコンコン
ノックを鳴らしても、返事の声はない。
「失礼します」
立山さんは日に日に気力が萎えているようだった。ベッドに伏したまま、入ってくる私に目を向ける。
起き上がることができなくなってから2ヶ月。立山さんの腰の痛みはひいたものの、相変わらず立つどころか身体を起こすことさえできない。電動ベッドのギャッジアップで身体を起こすくらいならなんとかなるが、体幹の筋力さえ今は衰えてしまっているだろう。
「また来たの」
発する言葉も少なくなってきた。最近は電話をかけても出ないことが多い。
あれからずっと、立山さんはベッドから降りていない。唯一降りたのはマットレスをエアマットに交換した時だけだ。痛みが落ち着くのを見計らって、福祉用具相談員と協力して、車椅子に座ってもらった。お菓子類で埋め尽くされた部屋には、ベッドの他に横になれるスペースがない。
こうして話している間も、エアマットが稼働し、変形して立山さんの身体を自動的に傾けている。寝返りがうてない、頻繁に介助を受けられない人はこのように対応しないとすぐに褥瘡ができてしまう。
もっともこれだって完璧ではない。日中は、ヘルパーを増やしてオムツをしてもらった。ヘルパー事業所に無理をお願いすることになったが、状況的に仕方がないと協力をしてもらえた。
しかし夜間は流石に無理だ。日中のヘルパーも限度額の関係でこれ以上増やせない。1ヶ月も経つ頃には立山さんの臀部には褥瘡ができ、少しづつ酷くなっていった。
この状況を私だってただ静観していたわけではない。入院か、ショートステイで介護を受けるように何度も説得しに行った。電話では埒が明かず、訪問しての説得だった。もっとも訪問したところでこの人の答えは変わらなかったが。
酷くなる褥瘡を見かねた往診医は、薬を処方しながら、往診医の系列の老人保健施設にショートステイを打診して部屋を確保してくれた。
事務所に連絡が来て、ショートステイの部屋を抑えたことを看護師が告げた。「ただ、ショートを利用することに納得してくださるかどうかが問題です」
「私が説得に行くしかないでしょうね。例によって受け入れてもらえるかどうか、保証いたしかねますが」
そうとしか答えようがない。やり取りを聞いていた倉橋さんが「説得できる?何か策でも?」と尋ねたが、策などない。
私にできることは、状況を本人に伝えて説得を試みるだけだ。
「ずっと横になっているのもお辛いでしょう。このままだと褥瘡は酷くなると思います」
「折れない人ね」
「私はそういう人なんです」
答える私に立山さんはしばし沈黙する。
元気ならもっといろいろ言い返しそうな人なのだが、流石にこの状態ではそうもできないか。もっとも、今さら何を言われたところで気にしない。冷静に対…
「あなた、お局みたいって言われない?」
そんなわけあるか!−いや、ないとは言い切れないな。冷静になれ私。思わず言い返しそうになる自分を制する。
「私もいい歳です。法人には後輩もいますので、余計な事を言ってしまうことだってあるでしょうね」
自分で自分がどんな表情になっているかわからなかった。
「私がいらないお節介を焼くものだから、『うっせえわ』と内心思ってる人だっているかもしれない。立山さんもそうじゃありません?」
聞いている立山さんの表情が読めない。何を思って私の話を聞いているのだろう。
「こんな身体になって、早くあの世に行きたい」
珍しく、弱気。さて、どう返そう。
「今は辛いでしょうが…。褥瘡はショートに来ればケアしますと老健は言ってますよ。まずはそこでゆっくり休まれては?いろいろ考えるのは、後でもいいじゃありませんか」
思いついたままを伝えたが、これは正解だろうか。
「…あなたの好きにすればいいじゃない」
立山さんは、そこで折れた。
手短に意向を再確認し、携帯でその場で老健に連絡を入れる。相談員をすぐに向かわせるとのことだった。私が立山さん宅を訪問すること、説得を試みることは事前に伝えてあった。
相談員はものの10分もしないうちに到着する。私はそこで状況を伝え、これをサービス担当者会議とさせて下さいと伝えた。ショートステイの利用はケアプラン変更が必要だ。プロセスは可能な限り手順通りにしなくては。他のサービス事業所には後で意見照会の書類を送ろう。
こうしてショートの手筈を整えた私は、いったん相談員と共に立山さんの部屋を後にする。相談員の三田さんは私が立山さんを説得したことに驚いていた。無理ではないかと思っていたそうだ。
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