介護

「あ、帰って来た」

水貴が事務所に戻ったのは6時少し前。就業時間は過ぎていたが、倉柳と井上は請求の最終チェックをするべく、デスクの上にはまだ書類の束が山と積まれている。

「お疲れ」と倉柳は水貴に一瞥をくれ、短い労いの言葉をかける。そしてまたパソコンに向き直り何かを打ち込み始めた。

「お疲れ様です」と応じる水貴。水貴とて仕事が全て片付いているわけではなかった。番場の訃報で急に外出したのはいいが、請求業務の締切が待ってくれるわけでもなし。水貴の入力が遅れれば事務員にも迷惑をかけてしまう。

「あんたさあ」と不意に声をかける倉柳。

言い方から何かやらかしたかな、と思いつつとりあえず水貴は「はい」と答えた。

「この請求リスト間違ってるよ。井上さんが見つけてくれた。この人、月末に退院したんだってあんた言ってたよねえ?」

そうだった。完全に失念していた。倉柳は1枚、水貴に書類を差し出す。-入院のため今月請求なし-間違いない自分の字だ。こんな初歩的なミスを今さらやらかすとは。と水貴は思わず唇を噛んだ。

「まあま、今回は事前に見つかったわけだし松原さんもそんな落ち込まない、ね?」

井上がそう言って取りなすが水貴は素直に受け取れない。ケアマネがこんな間違いをしていたらサービス提供事業所にも報酬が入らないのだ。小さな事業所はそれが原因で最悪、潰れたりすることだって無いとは言えない。

「井上さんもそんな甘やかさないでよ。松原さんのためにならない」すかさず指摘する倉柳の言うとおりだと水貴も受け止めるしかない。

「倉柳主任が無駄に厳しいから私がバランス取ってるんじゃないですか。ドラマでよくあるじゃないですか、厳しい刑事さんが詰めた後に優しい刑事さんがですね」と井上は倉柳の注意をまるで気にした風でもない。

「私たちは刑事でもなければ取り調べしてるんでもない。いったい何を言ってるんだか」

ああもう調子狂うんだから、と顔をしかめる倉柳。やはり倉柳は井上に頭が上がらず、水貴はいつの間にか傍観者風になっている。

「そんなことよりなんで言ってあげないんですか?さっきあんなに言っていたのに」意地悪そうに井上が返すと、それは…と言葉を濁す倉柳。「私が言ってあげたらいいんですかあ?」と井上が追い打つ。完全に井上が上手である。

「わかった、わかったわよ全く…」これ以上は分が悪いと悟ったか、倉柳は観念したように水貴に向き直り、ふう、と一息。これ以上何を?と水貴は見当もつかない。

「…やったじゃん、あんた」

「え?」

「気づいてないかなあ。さっきの請求が漏れてた分、数え直したらあんたが今月の件数トップよってことなの」どこか憮然としたように言う倉柳に、井上がクスッと笑みをこぼす。

水貴は先程倉柳から手渡した書類をもう一度見た。38件。他のケアマネも35件以上は担当しているからたいした差があるわけでもない。それでも37件で並んでいる倉柳と井上を差し置いて、1件だけとは言え水貴トップになったことには間違いがないのだ。

「番場さんの件で頭がいっぱいだったみたいね。素直に喜んだらいいのに」

「さっきまで素直じゃなかった人が何を言いますか」

「うるさい」

倉柳と井上の掛け合いに置いていかれがちになってしまうが、少しづつ水貴の中に実感が湧く。

「…まあ、番場さんの件でかかりきりになっていたことだって、全然悪いとは思わない。あんたは他の仕事もしっかりやってる」

「大変だったよね。落ち込んで帰ってくるかなと思ってたけど」

「それは私が言ったでしょ。松原さんはいつまでもウジウジする人じゃないって」

「言ってましたね。『万が一落ち込んでたら私が発破かけてやる』とも」

「いちいちうるさいってば。…って、え?」

声を漏らしてしまった水貴の方を向き倉柳が狼狽える。

「あらあら、倉柳主任がからかうからじゃないですか?」

「なんで私なのよ!だいたい井上さんが…」

そこからの倉柳と井上のやり取りは、水貴の頭に入って来なかった。

番場の訃報が入ったとき

エンゼルメイクを施された番場の顔を見たとき

番場の息子が声を漏らして泣いたとき

水貴は泣きたかった。でも、泣かなかった。

仕事で関わっているから。家族と一緒に泣くためにそこにいるのではないのだから。

番場には友達もいた。家族がいる。番場の死を悼む涙は、近しい人達が一緒に流せばいい。

水貴には仲間がいた。井上がいる。倉柳がいる。水貴の成長を願い、時には厳しく教え、時には暖かく迎えてくれる。番場の死は水貴にも悲しい。でも悲しいことを悲しいと、この人達の前では表に出していいのだ。そう感じることが出来たから流れた涙だと、水貴は思うことにした。

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