本人と妻

「最初は緊張すると思うけど、私がついてるから」

深呼吸を繰り返すスミレに水貴が声をかける。約束の時間の5分前には現地に着いている。水貴は極力、訪問時間ぴったりでなければチャイムを鳴らさない主義である。1分前であろうと時間より早く押すのはダメだと徹底して自分にもいい聞かせている。

今回は緊張しているスミレがいるので気持ちに余裕を持つべく早めに到着するようにと水貴なりに算段を立てている。スミレはスミレで待っている間の緊張は辛いのだが、と言いたくもなる。が、水貴の言うことも理にかなっているわけで大人しく従うことにした。

「頃合いかな。チャイムはスミレちゃんが」

「はい」

入念に時計を見ていた水貴が促し、緊張しつつもスミレがチャイムを押す。はあい、とさほどの間もなく家の中から女性の声が響く。

80代の妻が出て来て応対をする。この妻が同居していて介護疲れがたまっているという話だった。

妻は髪もきれいに整えられており、体躯は小さいながらも背中も曲がっていない。年輪の深い顔には柔和な笑顔が浮かんでいる。優しそうな奥さんだな、と水貴は思った。

「はじめまして、ケアマネジャーの齋藤です」スミレはケアマネ証を提示して恭しく頭を垂れた。

「松原と申します。本日は契約の書類をお持ちしていますので、私も同席いたします」水貴もスミレに続いてケアマネ証を見せる。

「まあ、こんな若いケアマネさんがおふたりも。暑かったでしょう、さあどうぞ上がってくださいな」そうやって招き入れる妻に慇懃に再度頭を下げ、水貴達は家の中に入った。

客室に通されると、そこには梅屋本人が独りで座っていた。「お邪魔します」と声をかけるスミレに梅屋は軽く一瞥して「ああ、どうも」と短く答えるのみ。

「あなた、今日はこの方たちがお話を聞きに来てくださったんですよ」と妻も声をかけるが「そうなのか?話すことなどないけどな」と取り合う様子もなし。白いシャツにグレーのスラックス、無愛想な態度でいかにも厳しそうな人物といった印象だ。だが厳しそうでもどこかぼんやりした表情であるようにも見える。

「どうもすみません、最近は人に対していつもこうで…」と妻が謝るが「いえいえ」「お気になさらず」とスミレと水貴は笑顔で返す。

それにしても息子の姿が見えないが、本日は同席するのではなかったか。

「あの…息子さんは?」とスミレが問う。「さっき電話がありまして。道が混んでいて30分ほど遅れるそうです」とこれも申し訳なさそうに妻。

「なるほど」と答えたスミレはどうしましょうか?と目線を水貴に送る。ううむと水貴も考えたが、息子が不在であっても話を聞くしかないだろう。

「息子さんが来るまで、少しお話をお聞きしてもいいですか?」

「ええ、私で良ければ」梅屋家の都合に合わせているのだから当然否やはないだろう。本人がいる場所では込み入った話はしにくいが、息子が到着したら位置取りを返させてもらおうと水貴は算段を立てる。

水貴はスミレに目で合図する。一から利用者のニーズを把握するアセスメントの経験は是非ここで積んでおいて欲しい。

スミレが主導して経緯を聞き取ることになった。梅屋は相変わらず憮然としたままだが、どうして客人が来て話をしているのか、梅屋自身には状況が把握出来ないのかもしれない。

「最近、夜は良く寝れていますか?食欲が落ちたなんてことは?」質問を重ねるスミレへの訝しさを醸しながらも、ぽつりぽつりと梅屋は口を開き始めた。

-そうだな夜は…。前と変わらん。寝ておるよ。食事も変わらん。なんでも食べるからな。普段の生活か?これといってすることもないしな。まあ、河川敷まで歩いたり、運動はしている。ずっと家にいても仕方が無いしな。暑い時は家に引っ込んでおるがな。

事前の情報ではそれで迷子になってしまったとのことだが。スミレが妻に目をやると、何か言いたげにしている。本人を前にしていては話したいことも話せないか。

本人から得られる情報と、家族からの話を照らし合わせて考えなければいけない。「なるほど。だいぶわかりました」とスミレ。これまでの話をファイルノートにまとめていた水貴が口を挟む。「お疲れになりませんでしたか?後は奥様に手続きのご案内をしますので、別の部屋でゆっくりされてはどうでしょう」

水貴の申し出に「もういいのか?まあ、疲れたしな」そう言って机に手をついて立ち上がる梅屋の様子はなかなかしっかりしたものである。運動能力だけを見れば衰えているわけではあるまい。

梅屋は障子を開けて別室へと歩いていった。はぁ、とその様子を見て妻がため息を漏らす。

「ごめんなさいね。偉そうでしょう、うちの人は」

「いえ、そんな…。お体はお元気そうだなとお見受けしましたが」

「体はそうですね。でも話の内容は全然違いますし」とまたも申し訳なさそうに2人を見やる。

「では今からもう少し具体的にお聞きしても?」

「もちろんです」と答える妻に、2人は居住まいを正して向き直る。こうして妻の口から経緯が語られ始めた。

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