『看取り⑤』

介護

インターホンを押す前に私は居住まい正す。

6月だというのに雨がほとんど降らず空には雲ひとつない。水嶋さんの家に行くには大きな坂を越えて行かなければならない。

息を整え、額に流れ出る汗をハンカチで拭き取る。吹き抜ける風は気持ち良かった。

玄関が開いて娘さんが出迎える。娘さんはここ1ヶ月、水嶋さんの家への泊まり込み欠かすことがない。

午前中は家に戻り家事をこなすが、遅くても夕方までは水嶋さんの家に滞在する。

午前中は訪問看護が提供に入り、身体を拭いたり水分の摂取量を観察し、水嶋さんの口に水分を含ませる。

どんどん痩せていく水嶋さんは固形物を食べられない日が続いており、肉づきの良かった顔は頬がこけている。

「やはりエンシュアはなかなか飲めませんか」

水嶋さんは静かにベッドに横たわっていた。私は水嶋さんを起こさないよう、小さな声で娘さんに尋ねる。

「味が濃くてどうしてもダメだと言っていました。さっきアイスを食べたところですよ」

エンシュアは高カロリーで栄養補給ができる補助栄養剤だ。食が細って栄養補給ができない人にはうってつけだが、味が濃くて飲み辛いという人がどうしてもいる。

医師は痛み止めの飲み薬と貼り薬を処方し、併せてエンシュアの処方せんも書いていた。エンシュアは口に合わないようだが…幸いなことに痛み止めはよく効いて水嶋さんが痛みに苛まれることはほとんどない。

どうしても急に痛くなった時のレスキューとしてモルヒネの座薬も処方されている。ベッドで休む水嶋さんの顔は穏やかで私は胸を撫で下ろした。

「寝ている時間が多くなりましたが、家に帰って父と話す時間を多くもてました」

そう口にする娘さんの顔も穏やかだ。

「この家には想い出がたくさんありますからね。私にとってもそうです」

庭には梅の木が実を結び始めている。私が始めてこの家を訪れた時、梅の花は綺麗に咲き誇っていた。毎年、夏になると奥さんが梅の実を収穫し、梅酒を漬けていたという。

梅の実収穫は家族の楽しみだったそうだ。奥さんが亡くなった後も水嶋さんは梅の木を大事にしていた。

「見てみぃ…」

不意に水嶋さんの声が聞こえる。見れば水嶋さんは目を開き、私に語りかけていた。

水嶋さんの声にハッとして向き直ると、その眼は庭に向かっていた。

「綺麗に咲きよるやろ…」

水嶋さんが横たわるベッドは窓の近くに置かれている。庭を見渡せる窓は、庭の手入れにこだわっていた水嶋さんがどうしてもここに置いて欲しいとこだわった特等席だった。

庭はいつ訪れても華やかで、来る者を歓迎した。今咲いているのは、百合だ。奥には夫婦で大事にしている梅の木も存在感を放っている。

「いつ見ても見事なものですね」

ふっ…と水嶋さんは力なく声を発したが、その表情ははっきりしているように見える。気難しい顔をすることの多い水嶋さんだが今日は笑っている。

「アンタも好きやったろ、花」

「ええ」

訪問した時には水嶋さんは庭の手入れをしていることが多かった。ポインセチアやクレマチスなどよく知らない花もあったが、尋ねると水嶋さんは手入れのコツを饒舌に語った。

水嶋さんが自宅に戻ることにこだわった理由を語ったことはない。だが自慢の庭を眺めていたいと思ってのことかもしれないと勝手に考えていた。

自宅で最期を過ごしたい願う動機が何であれ、私は私のできることをするしかないと思ってはいたが。

寝ている時間が長くなると病状としてはターミナルの更に最終局面と言えるのかもしれない。だがこの時はそんな事も考えず、水嶋さんと娘さんと一緒に庭を眺め、私達は笑っていた。

これが水嶋さんとの最後の会話となる。

水嶋さんが亡くなったとの報せを受けたのは3日後だ。夜間、娘さんに見守られながら息を引き取ったという。娘さんはそのまま訪問看護連絡し、指示を仰いだ。

−−−−

水嶋さんが亡くなった当日には医師が往診していたので、死亡診断書の交付はスムーズだった。

ケアマネの仕事としては通夜や葬式に出席するのは管轄外だ。報せを受けた私は、介護ベッドの引き上げや事業所への連絡を引き受けるのみだった。

気持ちとしては複雑だが、仕事としては沢山の利用者を引き受けている。感傷に浸っている暇はないと思っていた。

亡くなった後、娘さんは事務所を訪れ、1枚の写真を渡してくれた。

利用者から贈り物をされても基本的には断る。だが水嶋さんが私に贈ってくれと言い遺していたのはただの写真だ。ならばと思い私は受け取ることにした。

その写真は今でも私の自宅に飾ってある。

「姉ちゃん、お気に入りの写真でしょ?こんな味気ない飾り方でいいの?」

私の家を訪れた妹の公香が、地味なフォトフレームに収められた写真を見つけて言う。

私が写真を飾るなど滅多とないことだからな。

「いいんだよ、これで」

貰った写真には誰も入り込んではいない。水嶋さんが大事に育てた百合がただ映っているだけだ。美しい百合を飾るのに他のモノは要らない。


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