反町貴子のケースは、進展しなかった。
統合失調症であることは、ほぼ疑いようがない。一度だけとは言え、精神科の専門医にもつながった。保健所のバックアップも入ってくれている。
万が一自分で自分を傷つけたり、暴れたりすれば、措置入院ということも可能だ。だが、事態がそこまで悪くなる前に手を打ちたい。
「問題は家族よね」倉橋の言葉に水貴は小さく頷いた。倉橋はデスクに座って難しい顔をしている。
医療保護入院を調整しようとしても、本人が納得して病院に行くわけがない。娘の灰原は本人を説得してくれないかと言っているが、その態度はどこか他人事だ。
嫌がる本人を引っ張ってでも病院に連れていくのが現実的な解決策だ。だが、水貴も包括支援センターも保健所でも、そんな権限はない。それができるとすれば、家族だけなのだ。その決断が灰原には重すぎるのだろう。
「娘さんは本人の意思を尊重したいようですね」悔しげに水貴は口を開く。
「でも本人は納得しない」倉橋は淡々と答える。「家族が動かないなら、こちらにもできることはもうないわね」
俯き加減に、水貴は答えることができなかった。同じ事を考えているからだ。
「松原さん、一番に電話。出れる?」
水貴の先輩の矢口が割って入って来た。早川総合病院から電話だと言う。何事だろうかと水貴は受話器を上げた。
「お世話になります。早川総合病院、医事課の齋藤と申します」
早川総合病院は、反町がいつも通っている地域では大きな病院だ。水貴は反町の介護保険を更新するため、主治医意見書を依頼していた。医事課から電話ということは、きっとその件だろう。
「先日こちらに反町様の意見書の依頼が来たのですが…、医師の方から「私では書けない」と言うことでして…。いつも受診されているのですが、会話が噛み合わずで、対応に苦慮しておりまして」
主治医の意見書が貰えないとなれば、介護保険の更新ができないということになる。サービスを使わない反町に対して水貴が支援する理由も無いのだが、介護保険の認定も無くなれば、ますますどうしようもない。
「そうでしたか、それは無理を言いましてこちらとしても申し訳ないです。では市の介護保険課に連絡して、意見書の依頼を取り下げますので…」そう水貴は口にして、ふと頭に考えがよぎる。
「お力になれず申し訳ありません」と答える齋藤に「いえいえ、とんでもないです」と答えながら、水貴は頭の中で、思いつきがはっきりとした形になっていくのを感じていた。静かに受話器をおいた水貴は、ふぅ、と小さく息を入れる。
「…松原さん?何を言われたの?」倉橋が訝しい顔で声をかけてきた。
「ああ…。反町さんの主治医から、意見書は書けないと」
「そういう話だったの?なんだか、余裕そうだけど…」
「ああ、まあ、いえ…。なんでもありませんよ」そう言って取り繕う水貴だが、頭の中に確信めいたものがあった。
これはいけるかもしれない、と。
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「ごめんねえ、ヘルパーさん断っちゃって」そう言って明るく、反町は水貴を応接室に通した。
「いえいえ」水貴はいつもの調子で笑顔を崩さず、反町に促されるまま椅子に腰掛ける。「こちらこそ今日は、お伝えしなければいけないことがありまして」そう言って水貴は、いつになく慎重に話を切り出すのだった。
「急に何かしら?」少し戸惑った様子で、反町は首をかしげる。
「先日、反町さんの介護保険の更新申請を代行すると説明させて頂きましたよね?ですがかかりつけの医師から『うちでは診断書を書けない』と言われまして…」
「と言うことは、どうなるの?」
「なので来月末で反町さんの介護保険の認定は切れて、サービスは使えなくなります。ヘルパーさんはもう来ることができません」
「介護保険が切れてって、どういうこと?」事の次第が飲み込めないか、反町の表情は驚いているとも怒っているともわからない様子を浮かべている。
「困ったらどうすればいいの?あなたが来てくれるの?」
「いいえ」そのままいつもの調子で言葉を続けそうな反町を制するように、水貴は静かに、だがはっきり口にした。
「介護保険の認定がない方には、私もお手伝いはできないですね。もう来ることはできないです」そこまで言って反町の目が釣り上がる様子を、水貴ははっきり捉えた。
「それっていったいどういうことなの!おかしいじゃないの!」
「申し訳ないです。私の力不足で」
「そんなこと聞きたいんじゃないわよ!じゃあ私はどうすればいいのよ!」
「どうしても介護保険を更新したいなら、一つ方法はありますが」
「もったいぶらずにさっさと言いなさいよ!」
「先日行った精神科の医師に改めてお願いすれば書いてくれると思います」
「嫌よ!あんな先生と話すことはないわよ!」
「そう言うと思った」全てお見通しと言わんばかりに、水貴はすました顔をしている。
「なんで私がこんな…!どういうつもりなの貴女!」怒りが収まらない反町は、今にも水貴に捕まりかかりそうにしているが、水貴は気に留める様子もない。
「とりあえず、伝えましたので。一度ご検討してください」そう言って水貴は席を立つ。
「待ちなさいよ!まだ話は…」
「ではごきげんよう、さようなら」言葉を遮り、水貴はそのまま、振り返ることなく、反町の家を出た。
「…。上手くいくかどうかは、6分、いや7分か…」マンションを出た水貴は、額の汗を拭う。
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