介護も農業も、馬鹿にされる謂れはない

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雪乃
雪乃

いつもありがとうございます。「福祉はインフラだ」と表現されることがたまにあります。それはまあその通り。ですが、福祉以外にも社会を支えている産業はたくさんありますし、福祉以外のインフラにも目を向けていきたいと思い、記事を書いていきます。

自称「新しい介護」は一周回って古臭い

5ちゃんねるで話題になっているそうですが、最近Twitterの介護関係の話で荒れています。

なんで荒れているのかというと、「カツ丼を好きに食べられない介護施設なんて刑務所」とか「自由がない介護施設なんて綺麗な牢屋」とか言って、介護関係者のヘイトを稼いでいるアカウントがいるからではないでしょうか。

「私たちはこういう見方もあると提示したいだけ」と言いながら、他の介護施設の在り方を刑務所だの監獄だの、ちゃっかり自分たち以外のやり方を否定していますよね。

反発があって当然のことでしょう。

「誰もお前にそれをやれなんて言っていないのに、なんで文句を言うのか」という意見もあるのですが、既存の介護保険サービスを刑務所だの牢屋だのキツイ表現で、不当に貶めていることに対して反感をもっているだけです。

そして、介護施設を刑務所呼ばわりする人に反発して批判しているのを「新しい介護のやり方を理解できない人たち」と表現している人がいるのも見過ごせない。新しいとか古いとかいう以前に、同業者に配慮のない表現は問題です。

もっと言うと「根拠なんてどうでもいい」という言葉が、新しい介護を提唱している界隈にありましたが、根拠というのはこれまでの取り組みの中で蓄積されているものですし、それを軽視していると、これまでに得られた知見で回避できる失敗をまた繰り返してしまうことにもなりかねない。

たとえば、ご遺体にキスをしてしまう行為。これは感染症のリスクを認識していれば、普通はやらないことです。私たちは細菌の発見から、感染症についての知見を蓄積してきたのですから。感染リスクを無視した行為をしてしまうなんて、まるで医療器具の消毒もせず患者を治療していた昔の医療のようです。

過去の積み重ねで得たものを無視して、そうそう有益な新しいものを生み出すことは難しいでしょう。

「百姓」という言葉を悪い意味で使う人

そういうわけで、根拠も同業者の感情をも蔑ろにしてしまう「新しい介護」を唱える人、またそれを擁護したり賛同する人に対する反感は、あって当然のものだと思います。

そして、新しい介護とやらを擁護している人から「新しい介護を否定して批判している介護職は、まるで村八分をしている百姓集団」という発言がありました。

施設での介護を刑務所と形容したり、介護職を百姓集団と形容したり、まったく言動に配慮がなさすぎてウンザリします。

特に百姓という言葉を悪い意味で使っており、農業に携わる人にまで侮辱をしているようで、気分のいいものではありません。

辞書で調べてみると、百姓という言葉はいなかものを罵って使う言葉とする解説もあり、歴史的には悪い意味で使われていた時代、地域もあるでしょう。ただ、現代社会において世界に向けて発信されるTwitterで使う言葉として、適切なものであるとは思えません。

食料は、人が生活していく上で欠かせないものであるのは、異論をはさむ余地がないでしょう。発言した人だって、普段お米やパンや、肉、野菜を食べているはずです。その食料を作ったのは、農家の人以外には考えられないでしょう。

農家がいなければ人の営みは成り立たないはずです。例え自分で事業をして、たくさん稼いでいる人だって、誰かが食糧生産をしなければ生きてはいけない。

どんな職業もそうそう馬鹿にできるものではありません。しかし、普通に生活していても食事をすれば間接的に農家のお世話になっているのですから、農家に対する侮辱のような表現をするのは不見識が過ぎるというものです。

たまに福祉の重要性を強調する文脈で「福祉はインフラだ」という表現が使われていることがあります。私も言わんとすることはよくわかります。

この記事を読んでいる皆さんは、インフラと聞いて何を思い浮かべるでしょうか。道路とか水道とかが、代表的なものとしてまず浮かんでくるでしょうか。電気や鉄道も、そうですね。

インフラとは、インフラストラクチャ―(下部構造)からきています。社会基盤、社会を構成する基本の下部構造のことを、そう呼ぶのですね。教育や福祉、医療、公務員も社会に欠かせない基本構造として重要ですね。

対となる概念は、スーフラストラクチャー(上部構造)です。線引きをしっかりすることは難しいですが、例えば小売店も流通を担っているという意味で役割があるのですが、より下位の構造に依存していると言うことはできるでしょう。

例えばスーパーマーケットも、販売する食品を誰かが生産しなければ成り立たない。農家がいても道路がなければ店まで届かない。インフラのお世話にならずに生きていける人など、いません。

インフラという概念について考えることで、私たちの生活が社会の基盤を担う人たちによって成り立っていることが、よりよく理解できるのではないかと思います。

そういうつもりはなかったのだろうと思いたいところですが、百姓という言葉を悪い意味で使ってしまったことは、軽率ではなかったでしょうか。少なくとも、その人は誰かのおかげで、不自由の少ない生活ができていることを忘れているのではないかと思ってしまうような発言でした。

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